命日

今日8月7日は母の命日だ。死んで2年になる。

死んだとき、おれは母のそばにいなかった。今日も墓参りにも行ってない。2年前も今日も演劇関係の仕事だった。

母親は在宅で看取った。訪問介護の人がほぼ毎日来てくれた。容態の推移を記録したノートが2冊あって、母が死んだとき、無理を言って貰った。

この2年間、そのノートを開くことはなかった。

だが今日は命日だ。勇気を出して開いてみた。最後の一週間分の記録をこのブログに載せようと書き写してもみた。

でも・・・全部消した。

何か違う。何かいやだ。

書き写して実感した。よくわからん数字や排便の回数の記録の中には、母親はいない。

そうだよな。うん。やっぱりそうだ。

母親は、おれの記憶の中にしかいないのだ。

「勝ったかん?」

「ちゃんと学校行っとるかん?」

「今度いつテレビ出るだん?」

おれはいつでも思い出せる。口調も、声音も元気なころの母親のまま、はっきりと思い出せる。これがおれの母親だ。

ノートの数字は母親じゃない。墓の中のお骨さえ母親じゃない。

考えてみれば、こんな直截で、身も蓋もない愛情表現をしてくれた人は、母親以外誰もいない。

母親の愛。身も蓋もない愛。おれは幸せだったのかもしれない。

「勝ったかん?」

「ちゃんと学校行っとるかん?」

「今度いつテレビ出るだん?」

もう一度だけでいい。母親に直に言ってもらえたら。

おれはどんな反応をするだろう。母親が生きてるときは、言われるたびに「うっとおしい!」って怒ってたけど。