授業=歓びの場

 ここに一人の娘がいる、彼女はある男性を愛してしまう。が、その男はやがて大病を患い、あと五、六年の寿命しかないと診断されていたとする。あえて、その男と結婚すれば不幸になる、と廻りの人に彼女はいわれるでしょう。

「あの男性と結婚したいというあなたの気持ちはわかるけど、彼と一緒になれば、あなたは妻としてではなく、看護人として生きていかなければならない」

と忠告されるかもしれない。そのとき彼女は、彼を選ぶか、それとも。いわゆる世間的な幸せを選ぶか、という岐路に立たされるだろう。実はこの状況というのは、彼女にとっては、人生を選ぶか、あるいは生活を選ぶかということなんです。

 病気の彼を選ぶというのは、人生を選ぶことといえるし、彼と別れて、健康な男性と結婚するということは、生活を選ぶことを意味している。このような岐路に立たされる若い男女というのは、世間には大勢いると思う。

(中略)

 ぼくは生活を選んだからいけない、とはいわない。生活を選ばなくちゃいけないときがあります。かりに、ぼくに娘がいて、先ほどいったような病人の男を愛してしまったら、親としてはやめろというかもしれない。生活を選べというかもしれない。だから、生活を選ぶことは決して間違っているとは思わない。

 ただ、その生活の奥に人生があること、人生というものがときとして、いや、しばしば人間を高めるということを決して決して忘れないでもらいたい。

 遠藤周作『自分づくり』(青春出版社)より引用

 オレはまず、「生活と人生は違う」と生徒に言った。

 先週の木曜日、自分のクラスのリベ国の授業の時間のことだ。そうして先に引用した文章を読み上げた。

 読み上げた後、オレは生徒に言った。「オマエらがこの若い娘だったら、生活を選ぶ?それとも人生を選ぶ?書いてくれ」

 次いでオレは重ねて生徒に問うた。「人生と生活の違いはなんだ?」「オマエらはどんな生活を送りたい?、そしてどんな人生を送りたい?」

 なんでこんな授業をやったのか?ウチのクラスの生徒の中の幾割かが、生活に負けそうになっていて、でもなんとかギリギリ踏ん張って、そんな素振りなんか全く見せないで、学校に通ってきているのを知ったからだ。そうしてそんな彼ら/彼女らに、これからを生きるためのチカラを、それが無理なら生きることに絶望しないためのヒントなりとも与えたかったからだ。

 教員が生徒にモノを言う場は、授業しかない。だから、オレはこの授業をやった。

 生徒たちは、ちゃんと聞いてくれた。考えてくれた。1対40ではなくて、1対1×40の授業が、あの時間は成立していたとオレは実感している。

 授業は、とオレは思う。歓び、でなくてはならないと。生きるための勇気を得られる場でなくてはならないと。

 もしも授業がそういう場でないとしたら、コイツらは何のために苦労して週5でバイトして稼いだ金で家族を支えながら、学費も自分で払って学校に来ているのだ?

 コイツらの思いに応えようとすることだけが、学校というものの存在意義なのではないだろうか。