オレのワークショップは現代アートだったんだな

今の世の中、〝いつでも・どこでも・なんどでも〟が主流だ。学校の授業だってそうだ。情報端末の普及で、結構面白い授業を、都会に住んでたって、ド田舎に住んでたって、同じように受けることができる。映画やドラマもそう。レンタルビデオ屋を何件もハシゴして、一泊300円くらい払ってようやく観ることができた新作のドラマや映画が、サブスクの普及で月額1000円払えば、どんなクソ田舎に住んでても、家に居ながらにして見放題だ。気づいてみたら、あんなにあった街中のレンタルビデオ屋をとんと見なくなった。

人間というのは誘惑に弱いし、きっと根が横着にできてるんだろう。便利なもの、ラクなものを苦もなく受け入れてしまう。18で免許を取ったとき、トランスミッションはマニュアルが普通だった。しかしオートマ車がぐんぐん普及して、そのうちオートマ限定免許というものが発行されるようになり、今ではマニュアル車なんてスポーツカーくらいしか見かけなくなった。オレの運転免許は、オートマ限定免許ではないが、クラッチ操作なんて今さらできる自信がない。オートマは便利だよ、やっぱり。ラクチンだし。洗濯機も炊飯器も掃除機も、よく考えれば昭和30年代までは全然普及していなかった機器だ。それ以前は掃除も洗濯も全部、手間暇掛けて人力でやっていたのだ。スマホの普及で、電話も一人一台の時代になった。昔、東京で大学生だったころ、オレは高い金を払って固定電話をアパートに引いた。貧乏だったが電話だけは食うものを切り詰めてでもいの一番に引いた。オレが大学生の頃(まだ昭和の時代だ)は、ガラケーすらなかったのだ。

そんな世の中の流れ(いつでも・どこでも・なんどでも)に全く逆らうように、オレが血眼になってやってるワークショップは、〝一回性〟の世界だ。「今・ここ・あなたと」の世界なのだ。オレは山ほど「リベ国」の授業や、「演劇表現」のワークショップをやっているが、決められた時間に、会場まで足を運んでくれないとそもそも参加することすらできない。参加してくれても全く同じ授業やワークショップは絶対にない。受けてくれる相手も一回一回違うし(仮に同じメンバーだとしても、参加者ひとり一人の気分やコンディションは毎回違う)、授業やワークショップの内容や展開だって、相手に合わせて毎回コロコロ変わってゆく。

時代錯誤?時代遅れ?そうかもしれないな。でも、とオレは思う。この〝一回性〟ってのが、今となってはムチャクチャ尊いんじゃないのかと。そして、芸術作品というのは、どのジャンルの作物でも、この〝一回性〟を受け手に強烈に実感させることを目論んで制作されるのではないかと。

ここまで書いて、オレはハタと膝を打った。「なあんだ。オレのワークショップは、現代アートだったんだ」