日本人の道徳(行動原理)/反骨と自由 県大会前に思うこと

刈谷東高校演劇部は県大会に出場する。上演は8月8日土曜日16:30から。場所は豊橋駅直通のPLATという劇場だ。

「手紙」という芝居を上演する。不登校やひとりぼっちになってしまった状態を題材として扱っている。演劇部員は皆、自身が不登校経験やひとりぼっちになってしまった経験を持っている。自身の経験を題材として扱っているわけだ。だが、それは素材、喩え、具体例でしかない。素材を通して、我々が訴えたいものは、他者との邂逅→他者の受容が、個人の変容を生む、という抽象的で且つ普遍的なテーマだ。不登校になった経験がない者、ひとりぼっちにならぬよう他の人と同じであることを意識的に或いは無意識的に選択して生きてきた者(ニーチェが喝破したとおり、まわりの人と同じであることが現代では一義的な道徳となっている)でも、「今の自分、ちょいうんざりだなあ」「変わりたいなあ」「いまちょっとひとりぼっちで寂しいなあ」と思ったことがある人間ならば(そしてそれは大抵の人間は一度は思ったことのある気持ちであろうと私は想像する)、虚心坦懐な気持ちで観てくれれば、必ずや「ああ、不登校というたとえ話を通して語っている内容は、これ、オレの物語じゃん!」と共感できるように演出がほどこしてある。

ところがだ、虚心坦懐な気持ちで、異質なものと向き合うことを拒否するような風潮が今はある。いや、今だけではない。日本人は、異質なものをうけいれず、排除する。排除するばかりではない。水に落ちた犬を叩く。しかも執拗に徹底的に。その残忍なこと。おぞげが走る。自分が水に落ちれば、苦もなく助けてと悲鳴をあげるくせに。繰り返す。ニーチェが喝破したとおり、まわりの人と同じであることが現代では一義的な道徳となっている。そうではなくて異質なものを異質なものとして認め、並列で並べることのできるような世界との係わり方を学ぶべきだ。同じであれ、目立つな、と同化することを強要する勢力に抗して。

刈谷東演劇部は、地区大会であったと伝え聞いた或る出来事を全員で共有した。その出来事を聞いて、みな涙した。みな恐怖した。だからみんなで決めた。もっと強くて、もっと深い表現ができるようになろうと。今は皆が、その共通の目標に向かって腹を据えて稽古に励んでいる最中だ。刈谷東高校演劇部に関わる者にとって、今回の県大会は単なる大会ではない。戦う相手は同じであることを第一に道徳とする日本的な気味悪さと、その気味悪さの前でたじろぎ、恐怖し、縮こまって己を無にしてしまったほいが楽なんじゃないか、安全なんじゃないか、得なんじゃないかと考えてしまう、弱くて、打算的な自分自身だ。刈谷東高校演劇部は、一部の顧問のように自己満足のために芝居作りをするわけではない、一部の学校のように学校の中で大きな顔をしたいために芝居作りをするわけではない(残念ながら刈谷東では全国大会に行ってもそんなに誰も褒めてくれない。大きな顔など出来ない。派遣費がかかって迷惑がられるのが関の山だ。かつて3度、オレは全国大会に行ったが、金の工面で事務は発狂しそうになってきた。そのとき助けてくれたのが刈谷東昼間定時制の同窓会だった。オレは今でも同窓会には感謝している)。もちろん、マシな芝居を作れば結果が付いてくるだろう。でも、それだけじゃないってことだ。

コムデギャルソンを特集した「Switch」という雑誌を手に入れた。川久保玲の特集記事を読んでいる。反骨と自由。素敵だ。表現とはそういうものだ。記事を読んで思った。オレはコムデギャルソンを着ようと。ユニクロじゃなくて。ユニクロにはとても世話になっているし、ユニクロになんの恨みもないのだが、今回のウチの芝居と同じように、これもたとえ話だ。