無聊(その2)

オレのおばあちゃんは、オレが中1のときから徐々にボケ始め、高3の終わりに完全にボケきって死んだんだよ。69歳だったね。てことは63からボケ始めたってことで、ずいぶん早いんじゃないか?

おばあちゃんは働き者だったな。フルタイムで教員をやってた母親の代わりに家事を全部をやって、オレをずっと育ててくれたんだよ。小学校のオレは、学校に行っている時間以外は、ずっとおばあちゃんといっしょだった。寝るのもおばあちゃんといっしょの部屋で寝ていたし。オレ、おばあちゃんが大好きだった。今でも大好きさ。その分、おばあちゃんが急にボケてしまったのがムチャクチャ悲しかったし、だから、なんであんなに急にボケちゃったのか、ずっと考え続けてるんだよ。13歳の時から60過ぎた今でもずっとね。あの急激なボケ方は、何か理由があるとしか考えられないんだ。

土曜日に、ずっとNPOをいっしょにやっているK村が近況の変化を報告してくれた。今春から日々の過ごし方に変化があったけど、完全に悠々自適になったわけじゃなくって、地域の役職もあるし、NPOの運営もあるし、やらなきゃならないことがまだまだたくさんあるんだとK村は言ってた。聞いてて「うん?」ってオレが思ったのは、K村が地域の役職に就いたのを「贅沢」って言ったことだ。贅沢?なんで役職に就くことが贅沢なことなんだろ?役職なんて面倒くさいばっかりじゃないのか?年寄りにとって、やることがあるのは贅沢なのかなあ、ってオレは聞きながら、薄ぼんやりと思ってた。その時だよ。オレに突然天から啓示が降りてきたんだ。ずっと解けなかったおばあちゃんに関する疑問、なんでおばあちゃんはあんなに急にボケちゃったのかって疑問に関する啓示が。

「人間は無聊(やることがない状態)に耐えきれなくなると、自分の精神が崩壊するのを防ぐために脳内に何かの変化が起きて、ボケが始まるんじゃないか」

どうよ?どう思う?オレ、結構真理だと思うけど。ボケは脳内麻薬みたいなもんなんじゃないかってオレは思ったんだよ。

考えてみりゃあ、中学入学を境にして、オレはおばあちゃんの手を、急激に、完全に離れたんだ。自分の部屋で寝起きするようになったし、学校も家の近所の同級生と通うようになったし、運動部に入って休みの日も部活に行ったし、中学に入ると勉強だって多少はしなくちゃいけなくなるから家に帰ってからも自分の部屋で過ごす時間が増えるし・・・。

オレにしてみりゃあ、そんな変化は至極当たり前のことなんだけど、立場を変えておばあちゃんの身になってみれば、それまで自分の仕事、自分の責任と思い定めてやってきたことが、突然に、完全になくなっちゃったわけだよ。12年ずっと母親のように育ててきた孫の面倒を、もう見ることができない。やれることがない。やるべきことがない。この先、死ぬまで間、終わりなき日常を何をしてやりすごせばいいんだろ?一体自分はこの先、生きていて誰かの役に立つのか?一体自分は、何のために生きているのか?・・・。

前回のブログにも、オヤジが死んだとき母親が「やることがない」と号泣した話を書いたけど、年寄りにとっては、急にやることがなくなるのって、キツいことなんだろうね、きっと。母親はなんとかやることを見つけて、ボケを回避した。けど、おばあちゃんはモロにやることがない状態に直面してしまって、そんな自分のありように耐えきれなくなって、ボケる道を選んじゃったんじゃないか。

ボケたくなきゃやることを見つけろ。しかも誰かの都合によって奪われることないやることを見つけろ。母親とおばあちゃんが身をもって教えてくれた教訓だよ。

しかし、人間ってのは遣る瀬ないねえ。無聊が人間に与えるダメージの大きさは想像を絶するね。ていうか、人間精神ていうのはかほどにもろいものなんだね。さて、オレはどうやって無聊をしのごうか。