「世界の果てまで連れてって」を書き直してみた。或いは芸術についての一考察

「母は業の深い人間であった。

欲しいと思うと何をしてでも手に入れた。タンスには毛皮のコートがびっしり収まっていた。冷凍庫の中は高級お取り寄せ品が溢れていた。そうして、カードローン会社に多額の借金があった。

晩年は歩けなくなって、1年半以上寝たきりだった。

「もう死にたい」天井を睨み付けながらつぶやいていた。あれだけエネルギッシュに動き回っていたのだ。さぞ無念だったろう。しかし、おれは何度も目撃した。ベッドサイドに置かれた携帯電話を必死で操作して、愛の言葉をささやく母を。寝たきりの88歳になっても、母には情人がいたのだ。

母は自宅で最期を迎えた。たくさんの介護士、看護師に世話になった。母に係わった人が毎日つけていた連絡ノートがある。母の死後、おれは頼んで譲り受けた。

今、目の前にそのノートがある。開いて、読んでゆく勇気が未だ持てない。そこには、母の最期の日々が、細部にわたって記録されている。朝、何を食べ、便通は何回あり、どんな様子だったか。劇的なことは何もなかったに違いない。しかし、淡々とした日々の積み重ねが、母が生きていたことの証なのだ。読むと、母の不在を思ってしまう。怖くて読めない。

母の寝ていた場所の正面には、“一宮スタジオグランドオープン”と書かれた、色鮮やかなチラシが貼られている。7月の初め頃だったと思う。おれが母に渡したのだ、「いま、こんなもん作ってるんだよ」と言いながら。

母が亡くなったのは8月7日。スタジオのープンは9月5日だった。おれは母にスタジオを見せることができなかった。

「チラシ、一番よく見える場所に貼って、ってお願いされたんですよ」母が死んだあと、一人の看護師さんが教えてくれた。

母がこの世で最後に目にしたのは、あのショッキングピンクのチラシだったのかもしれない。おれはチラシを、いまだに剝がせないでいる。」

前回のブログを書き直してみた。

こっちは端正だな。余韻もある。削った分だけ読みやすくなっている。感情部分をそぎ落とす。物自体、事自体に語らせる。

前回のはその逆だ。書いてたら出てきたものを、そのまま書いちゃう。主観も客観も何もあったもんじゃない。感情も物も事もごちゃ混ぜになりゃあいいじゃん。そう思って書いた。おれの息遣いが表れてればいいな、って思いながら書いた。

みなさんはどちらがお好みですか。おれは・・・。