NPOの行く末あるいは限界芸術について
今朝の朝日新聞社会面のトップ記事で、オレの学年の卒業式の記事が載った。五段抜き。全国版の1面リードにも写真付きで記事が紹介されている。答辞とそれを読んだ生徒にスポットを当てた記事だ。オレは「定時制の卒業式」の様子全体を扱ってくれると嬉しかったのだが、そんな贅沢は言わない。扱ってもらっただけで有り難い。
さて、渾身の卒業式が終わり、学年の生徒も半分は卒業し、もう半分の4年生になるヤツらは家庭学習期間中で学校に来ないから、オレは最近ずっと呆けたように暮らしている。
少しはなんか考えないと本当に惚けてしまうので、つらつらとNPOの行く末を考えていたところだ。
『限界芸術論』っていう本を読んだ。書いたのは鶴見俊輔という哲学者だ。大変面白かった。
この本によると、芸術には三種類あるそうだ。純粋芸術、大衆芸術、そして限界芸術の三つだ。
違いは何か。鶴見俊輔は曖昧なことは書かない。スパッと定義する。大変明快、読んでいて気持ちが良い。三種類の違いは以下のとおり。
・純粋芸術=作り手:専門的芸術家、享受者:専門的享受者
・大衆芸術=作り手:専門的芸術家と企業の合作、享受者:大衆
・限界芸術=作り手:非専門的芸術家、享受者:非専門的享受者
読みながらオレは膝を打ったね。そうだ!CAワークスが目指さなきゃいけない/目指しうるのは、〝限界芸術〟なんだと。
実際、その方向で一宮スタジオの貸スタジオ事業は伸展してきている。コスプレ撮影、アニメイベント、切り絵教室に書道教室、ブリコラージュの広場に高校演劇応援企画ね。
考えてみりゃあ、1階のBOXショップなんざ、限界芸術そのものじゃん。名古屋は一宮から快速で一駅だと胸を張ったところで、名古屋と一宮では、どうしようもなく文化的な土壌が違う。ましてや、一宮スタジオがあるのはほんまち通り商店街だ。リニューアルして疑似名古屋になろうとしている一宮駅前とはちがって、ほんまち商店街には固有の雰囲気が色濃く残っている。限界芸術しかねえよ、冷静に考えれば。
こんなふうに書いているオレにしたところで、アタマではわかっちゃいるつもりになってたが、心の何処かで疑似名古屋への憧れ、すなわち純粋芸術や大衆芸術への憧れが捨て切れてなかったんじゃないか。ああ、なんてみみっちいオレなんだ!穴があったら入りてえ。
限界芸術1本。これで取りあえず来年一年はNPOの活動を組み立てて行く。それがあの商店街で、社会教育系のNPOが生き延びるための唯一の正解なんだろう。
「出来上手の別れベタ」という至言がある。作るのは簡単、維持し発展させ、しかるべき時にきれいに幕を引くほうが遥かに難しい。これまではいろいろと言い訳して半身でやってきてしまったが、来年度からはひとつ腰を据えてNPOの運営をしてゆく。オラあ、手を染めて坊主で終わりましたって経験は、これまで一度たりともねえんだよ。

