手紙(承前3)

手紙を書き出してから、もう随分と経ってしまいました。ちょっとずつしか書けないのです。字を書くことはもともと苦手ですし、働きづめに働いて、毎日ほんの少ししか好きに使える間がないのです。でも今日こそちゃんと書きたいことを書いて送らないと。そう決めて、いつも仕事で使っている神社のお堂の中にこっそり入って書いています。夜ともなれば、お客さん以外誰も来ません。今日はもう二人相手したから、もうきっと誰も来ません。

それにしてもここはいいです。私だけの秘密の場所です。マーケットを出て、芸子さんたちの歌や踊りの練習場の横を抜けて、少し行った先にある神社です。この辺りは7月20日の大空襲でも火が回らなかったから、細い路地の両側にちゃんと屋根のある家が続いています。

あの空襲は本当にひどかったですね。今思うとよく生き延びたと自分でも感心します。この町に来てほんの1日2日だったし、おまけに夜だったから、右も左もわからないまま逃げているうちに、置屋のお母さんともはぐれてしまって、それでも死にたくない一心で、めくらめっぽう逃げまわっていると、交番の明かりが見えて、ああ助かった、お巡りさんにどっちへ逃げたらいいか教えてもらおうと駆け寄ると、子どもを抱えたお母さんが何かしきりに訴えていました。近寄ってよく見ると、お母さんが抱えていたのは子どもの首で、胴体から下がありませんでした。「うちの子の胴体、知りませんか」お母さんは必至でお巡りさんに訊いていました。火の手があっちこっちで上がって、首だけを大事に抱えたお母さんの顔が火の照り返しで真っ赤に染まって見えました。ああ地獄とはこういうことをいうのかと急に怖ろしくなって一目散に逃げました。どこをどう逃げたのか、今となっては思い出せないけど、とにかく私は生き延びました。朝になって見ると、昨日まであった町がきれいさっぱりなくなっていました。平ぺったい地面がどこまでも続いて見えました。遠くに東岡崎駅の駅舎も見えました。

坊ちゃんはあの大空襲の夜はどこにおられましたか。お店の裏手の防空壕の中ですか。岩津のお店が焼けなくて本当に良かった。

 書くのが辛くて違うことばっかり書いてしまいます。お堂の外がほんのり明るくなってきました。急がないと。暗いうちにバラックに戻らないとお父ちゃんが心配します。

本当に書きたいことを書きます。

 坊ちゃん。私、坊ちゃんと昨日すれ違ったんですよ。

坊ちゃんはズックの鞄を肩に下げて、国民服に学生帽をきちんと被って、マーケットの中を歩いていらっしゃいました。少し俯き加減になって、でも上目遣いで周りをうかがってらっしゃっるのがすぐにわかりました。私はちょうど真どんにお使いを頼まれて、バラックから出たところで、坊ちゃんがこっちに向かって歩いて来られるのを見つけました。ああ、坊ちゃんだって一目でわかりました。そしてすぐにどうしようって思いました。バラックの中に逃げ込んで隠れようって思いました。でもまたすぐに、ええい、いいや、このままお使いに行っちゃえって心に決めました。人の心って面白いですね。ほんの一瞬の間に本当にいろんなことを考えるのですから。

私、坊ちゃんに見つかってもいいやって、その時思ったんですよ。見つかって、何やってるんだ、さあ帰ろう、って手を引っ張られたら、そのまま岩津のお店に帰ればいいやって思ったんですよ。

私は、意を決して坊ちゃんに向かって歩き出しました。ゴミゴミして、腹が立っちゃうくらい騒がしい闇市が、その時だけは音がなくなって、その代わり私の心臓の音が耳の奥ですごく大きく聞こえました。私は坊ちゃんだけを見ていました。見ながら一歩一歩、まっすぐに坊ちゃんの方に歩いて行きました。坊ちゃんもずんずん私の方へ歩いてこられました。手を伸ばせば触れられる距離まで坊ちゃんが歩いて来られました。坊ちゃんが私を見ました。目が、合いました。そして・・・。

 ねえ、坊ちゃん。覚えてませんか。マーケットで目の前から歩いてくるパンパンとすれ違ったこと。真っ赤な口紅をつけた、パーマ頭の派手な女とすれ違ったこと、覚えてませんか?

覚えてないですか。坊ちゃんはそのパンパンと目が合った瞬間、すぐに目をそらしましたね。パンパンは、自分のことをすごく汚らしいものみたいに思いましたよ。

覚えてないですか。風船で膨らめたみたいな形の派手な色のスカートをはいて、胸のふくらみが見えそうなくらいにボタンを開けたパンパンの女とすれ違ったこと。あんなふうに目を逸らしたんだから、きっと覚えていらっしゃるでしょ?覚えてないなんて言わないでくださいまし。パンパンは、あの時、すごく傷ついたんですから。

 もうおわかりですよね。坊ちゃん、あの女、あのパンパン、私なんです。坊ちゃんの鞄をずっと持たせてもらって、坊ちゃんのお部屋で一緒にお八つをいただいて、本当によくしてもらっていた私なんです。あのころみたいにおさげじゃないし、モンペも履いてないけど、あのパンパンは正真正銘、私なんですよ。

 目を逸らした坊ちゃんとすれ違った後、私は、お使いもすっぽかして、この神社の境内まで走ってきました。そうして大きな声を上げて泣きました。

 ひとしきり泣いて、夜になって、商売してる間もずっと頭のどっかで坊ちゃんとすれ違った時のことばかり考えて、今日一日経って、その一日もずっとすれ違った時の坊ちゃんのことばかり考えて、これ書きながらずっとずっとあの時の坊ちゃんの仕種を思い出していたら、なんだかね、笑いがこみあげてきました。不思議ですよね、目が腫れ上がるくらい泣いていたのに。私ね、ここまで書きながら、何だか笑えて仕方ないんです。

 坊ちゃん、坊ちゃんはあの頃の私を探してくださっていたんですね、学校帰りに何度も松本に寄って。坊ちゃん、そんなの無駄ですよ。あの頃の私は松本にはいません。でも、私は松本にいますよ。バラックに住んで、からだ売って、毎日必死でお父ちゃんや真どんとその日その日を生きている私なら、こうして松本にちゃんといます。私、わかっちゃったんです。坊ちゃんが必死になって探して下っていたのは、あの頃の私で、私じゃなかったんですね。そう思ったら、何だか笑えてきました。なあんだそうだったのか、って。そんなもんかって。期待して損しちゃったって。

 ねえ、坊ちゃん。なんで見つけてくれなかったんですか。なんで目を逸らしたんですか。私、目の前にいたんですよ。目まで合ったのに。ちゃんとドキドキしながらすれ違ったのに。月はね、どんなに形が変わってもおんなじ一個だけの月でしょ。形が変わってもおんなじ月でしょ。月、見間違えないのに、なんで、人間だと見間違えちゃうんですか。勉強がお出来になる坊ちゃん、教えてください。難しい哲学や政治の話はあんなによくご存じなのに、なんで目の前にいる私を見つけられなかったのでしょう。小学生の頃から片時も離れずに一緒に過ごした人間を見つけられないのなら、お勉強がいくらできようと、ご本をどれだけたくさんお読みだろうと、そんなことはまったく意味のないことなんじゃないですか。あのね、坊ちゃん。真どんは、焼け出されて、真っ黒けになった私を一目で見つけてくれましたよ。私、真どんなんかちっとも好きじゃない。お父ちゃんにだって心許してない。だけど、あの二人は、焼け野原になった松本の町で途方に暮れていた私をすぐに見つけてくれました。坊ちゃんと違って小ズルくて、学もないし、私に稼げ稼げって催促ばかりして、時には殴ったりもするけど、あの二人は私がどんなふうになっても私を見つけてくれるんです。だから信用してるんです。大嫌いだけど、信用していっしょに生きているんです。

 ああ、せいせいしました。書くだけ書いたから。甘い夢をこっそり見ていた自分がばかみたいに思えてきました。人間は、人間なんですね。月にはなれないんですね。ああ、せいせいした。バッカみたいだ。

 坊ちゃん、本当にこれでサヨナラです。長いことお世話になりました。私は坊ちゃんが大好きでした。尊敬しておりました。お嫁さんになれたらと心の中でずっとお慕い申しておりました。

 でももうサヨナラです。すれ違ったあの時にすべてが終わったのです。坊ちゃんが目を逸らしたあの時に、ホントのことが全部わかってしまったのです。

私はこの町で生きていきます。坊ちゃん、どうぞ私のことなど忘れて、たくさんご本をお読みになって、うんと偉くなってくださいまし。こんな卑しい場所、坊ちゃんには似合いません。もう二度と、私を探そうなんて思わないでくださいまし。

坊ちゃんには、私は見つけられませんよ。

                             昭和20年11月