手紙(承前2)

 坊ちゃん。

 坊ちゃんは善良すぎます。人を信じすぎです。そうして坊ちゃんは頭でっかちです。

 本当のことを教えてさしあげます。 

 7月18日に私はこの街にやってきまました。置屋さんに住み込むことになったのです。身売りです。お父ちゃんが私を売ったのです

 身売りなんて、坊ちゃんは想像もできないでしょ?いまでもあるんですよ、お金のために娘を売ることが。でも、お父ちゃんにそんな才覚があるはずありません。お父ちゃんに私の身売りを持ちかけたのは、そして置屋のおかあさんを紹介してくださったのは、旦那様、坊ちゃんのお父様です。

 坊ちゃんは中学に合格してからも、毎晩のように私にいろんな話を聞かせてくださいました。お部屋に呼ばれて、時にはナイショで私にもお八つを分けてくださって、中学のことや、日本国のこと、哲学の話、文学の話・・・私のアタマでは半分もわかりませんでした。話を聞けば聞くほど、坊ちゃんが、私の知らない世界の、遠くの人になってしまったみたいで寂しくなりました。それでも話をしてくれているときの坊ちゃんの真剣な顔を見つめているのは、とても楽しかった。

 梅雨の頃、坊ちゃんが中学に行ってらっしゃる間に、旦那様に呼ばれました。お庭の紫陽花がきれいに咲いているのが、お座敷からよく見えました。坊ちゃんと私が深い仲なのかと、旦那様は私に訊きました。滅相もございません、お話相手になっているばかりで、そんな大それたこと、想像したこともありません、と私はお答えしました。旦那様は黙ってしまわれました。なにか考えていらっしゃるようでした。誰がそんなことを言っているのですか。思い切って私はたずねました。旦那様は、真どんから聞いたのだと教えてくださり、誤解ならいいんだ、すまなかったね、と謝ってくださいました。それから間もなくのことです。もう一度、お座敷に呼ばれました。松本のお店の手伝ってもらいたい、もうお父上には言ってあるから、と旦那様に言われました。これまでよく働いてくれた、と懐紙に包んでお金もくださいました。私は何が何だかわからず、でも旦那様のご判断とあらば仕方ないと思い、替えの着物やら、身の回りの物やらをすぐにまとめて、お父ちゃんの家に帰りました。そうして7月18日に松本にやってきたのでした。旦那様もうまく言ったもんだ。松本のお店を手伝っておくれと言われたから、私はてっきり暖簾分けした松本の酒屋さんをお手伝いするんだと思ったのだけど・・・。

 坊ちゃん。さっきまで月がきれいに出ていました。トタン屋根の破れ目から本当に明るく月の光が差し込んでいました。おかげで、この手紙を書くことができました。でも、ちょっと雲がでてきたみたいです。紙に顔をくっつけて書いているんだけど、いよいよ自分の書いた字も見えないくらいに暗くなってしまいました。今日はもうここまでにします。続き、また書きます。私の隣で大きな鼾をかきながら眠っているのは、お父ちゃんと、そして・・・真どんです。真どんの眠っている床下にはお店のお酒がたくさん置いてあります。

 坊ちゃんは賢くていらっしゃるから、もうおわかりでしょう?

 人はパンのみにて生くるにあらず。坊ちゃんが私に教えてくださった聖書の言葉です。  

お部屋で初めて教えていただいた時、いい言葉だなあ、本当にそのとおりだなあ、と感動したことを覚えています。でもね、坊ちゃん、人はパンがなければ生きてはいけないのです。その日のパンがなければ、明日はやってこないのです。お父ちゃんも、真どんも、旦那様も、そして私も、それから、この街で暮らすみんなみんな、そう思って生きているのです。

 坊ちゃん、

坊ちゃんは善良すぎます。人を信じすぎです。そうして坊ちゃんは頭でっかちです。

 でも、私は、そんな坊ちゃんが大好きでした。誓って言えます。私は、善良で、まっすぐ人を信じて、頭でっかちの坊ちゃんが大好きでした。

さあ、もう行かないと。仕事です。私も稼がないと。7月20日の大空襲のおかげで置屋も焼けてしまって、私は芸者にならずに済みました。でも、もっとひどいことをして暮らしています。写真を一枚、入れておきます。馴染のお客さんがくれたのです。

これが、今の、私です。

 坊ちゃん。月が全部雲に隠れてしまったみたい。もうまわりは真っ暗です。月は毎日、形が変わります。満月の日からちょっとずつちょっとずつ欠けていって、最後には本当に細い形に変わります。でも、どんなに形が変わっても、おんなじ月だし、また満月の日が巡ってくるのです。ねえ、坊ちゃん。人間も月みたいだといいのに。月みたいにどんなに形が変わっても、また元の、晴れ晴れとした明るい満月に戻れるといいのに。

 私は月を見るのが大好きです。