自分を保つために今日は書きました。すみません。
〇過去はもうない。未来はまだ来ない。今しかない。しかし、今という瞬間も、刻々と過去になってゆく。今を十分に味わうこと。それが生きて在るということだ。
私は私でないもの(=世界)に囲まれて、今を生きている。今を十分に味わうためには、世界を感受しつくすことが必要だ。しかし、ややもすれば人は世界を遮断して、自分の中に閉じこもる。世界は自分ではないからだ。自分でないもの(=世界)は異物でしかない。異物はなじみがない。接するに抵抗がある。受け入れがたい。
しかし、その抵抗を甘受することなしに、世界は感受されることはない。世界を感受し、影響を受けることなしに、私が刻々と創造されていくことはない。過去がないのであるから、過去の私もない。未来はまだ来ないのであるから、未来の私もない。あるのは今の私だけだ。今の私は世界を感受しながら、今という時点において、刻々と変化し、生起してゆく存在なのだ。固定した私などないのだ。そう腹を括ったほうがいい。でないと過去の自分の幻影に囚われてしまう。
私が世界を感受し、世界とやりとりしながら、刻々と変化生成を繰り返す存在であるのと同様に、他者にとっては私は世界だ。他者も抵抗を覚えながら、私を感受し、やりとりをする中で、変化生成を遂げる。
誰の他者になるかが一つの問題だ。その他者との「あいだ」に何が生まれ、生まれたものからどんなはね返りを受け、互いに変化生成を遂げるか。これがドラマだ。生きるというドラマ。
世界を感受するレッスン。他者を発見するレッスン。他者との「あいだ」をつくり、ともに生成変化するレッスン。総じていえば、今、ここで、あなたと生きるレッスン。これが私の「演劇表現」ワークショップだ。
〇若い人は、年寄りを見下して敬遠する。年寄りは、若い人に高圧的にふるまうか、どうせ言っても無駄だと口をつぐむ。怖ろしいばかりの断絶だ。そうではない関係━同情も侮蔑もなく、男も女も、老いも若きも、健常者も障害を持った人も、対等に、平場で係わりあえる関係━はどうしたら作れるのか。どんな場なら対等な関係を紡げるのか・・・。こんなことを長いこと考え続けてきた。そして、考えついたのが部活動だった。部活動における同期という関係だった。だから一宮スタジオ演劇部を創ろうと思ったのだ。一宮スタジオ演劇部は単なる思い付きではない。私の問題意識の結実した、実験の場なのだ。
〇スタジオを維持するには金がかかる。金は大事だ。でも志はもっと大事だ。オレがやってるのはNPOだから。NPOには実現したいミッションがあるのだから。
オレは気が優しくて、口が上手いから、相手の欲していることをいくらでも言えてしまう。どんな振る舞いでもできてしまう。そして意外と辛抱強い。でも、そんなことばかりしていると、自分がもともと何故こんな活動をしているか、自分のなかで曖昧になってしまうんだ。目の前の金にあくせくしていると、どんな気持ちでNPOを始めたか、「演劇表現」ワークショップって何を目指していたか、わからなくなってしまうんだ。今日のブログは、自分を保つために書いた。自分の考えてきたことを、どストレートに書いた。たぶん、書く必然性というか必要性があったんだろうな。いつもにも増して工夫のない文章で申し訳ない。でもね、これがたぶんオレの本音というか、背骨の部分なんだよ。