対話がしたい。ブログでもできないかな

このブログを読んでくださっている方へ。

このブログを結構長い間、週1回のペースで書いている。先週はとっても忙しくってついつい飛ばしてしまったが。

ブログを書くこと自体は全然苦じゃないんだ。考えないでただ書いていると、それなりの文章が、不思議なことに出来上がってくる。それはそれで楽しい。ふうん、オレ、こんなこと考えてたのかと書き上げた後にわかる。

でもね、とオレはこのブログを書きながら何度も思うんだ。これ、読んでくれてる人がいるなら、反応が欲しいなあ、って。褒めてくれれば嬉しいに決まってる。でも、くさしてくれてもいい。読んで考えたことをラフに言ってくれたらすごく有難い。オレはきっと何でもいいから「反応」が欲しいんだ。反応があったら、オレはその反応に喜んだり、悲しんだり、ムッとしたりするだろう。そしてそれをまたこのブログに書くだろう。そういうことがやれたらすごくいい。文章は文章として完結してなきゃいけない、という当たり前のことが、オレは寂しくて仕方ないんだ。

オレがやりたいことは、きっと「対話[」なんだろうな。このブログの文章が呼び水になって、誰かが何か言ってくれる。オレはそれに対してまた何か言う。それを繰り返すうちに、その見知らぬ誰かとオレの間に出来上がるものがある。何が出来上がるかは、出来上がって見なければわからない。でもその出来上がったものは、決してオレ一人では創れない何かなのだ。それが「対話」というものなのだろう。

考えてみれば、間に生まれる何かが見たくて、オレは芝居を作り続けているようなもんだ。芝居は「間」で何かを生み出す芸術だとオレは思っている。演出をするオレと役者の間で生まれる何か。役者と役者の間で生まれる何か。舞台と観客席の間で生まれる何か。「間」で何も生まれないような舞台だったら、オレはこんなにも心血注いで芝居を作っていない。こんな長い間、いろんな場所で、いろんな人たちと芝居を作り続けてこれなかった。

オレの生業の教育も、「間」で生まれる何かを大切にする営みだ。教員と教員、教員と生徒、生徒と生徒、生徒と保護者、学校と家庭・・・。係わるいろんな立場の人の間で豊かなものが生まれるような仕掛けを作ってゆく。これが学校教育の要諦だと、長年この仕事に携わって実感している。

だからね、こんなふうに文章を書き連ねていても、オレは心細くって、寂しくて仕方がないのよ。文章をコリコリと書き連ねるという営みは、芝居や教育とは、質が少し違うのかもしれん。読み返してみると、オレの文章は完結しない感じがしない?ついついクセでさ、相手に呼びかけるような文章を書いちゃうんだな。セリフ書くときとか、演出する時と同じ気分で、ブログの文章を書いているみたいだ。これ、今、ここまで書いてきて気づいたことだよ。ほら、芝居ってさ、誰に向かって、どうしてほしくてしゃべってんの?っていうのが、セリフを言ったり、考えたりする時の根本原理だからさ。