土曜日の路上ライブ(未遂)で考えたこと
細胞がピチピチ跳びはねて悦んでおる。T田くんがシンセサイザーの鍵盤をなぶっている姿を見て思った。
芝居を作ったり、台本を書いたり、リベ国のワークショップや授業をやったりしているときの自分の感じを思いだした。いますぐにでもやりたいなと思った。
細胞がピチピチと跳びはねて悦んでる。あの感じ。あの感じを味わうためにオレはやってるんだと思った。
土曜日。一宮ほんまち3丁目商店街のイベントに、CAワークスとして参加した。紆余曲折があって、T田くんに頼み込んで路上ライブをやってもらうことになった。
朝早くから行って、T田くんがセッティングするのを手伝った。オレは演奏なんてズブの素人で、やれることと言ったら楽器や機材を運ぶことだけだ。音楽の機材ってのは、あんなに重くて、あんなにたくさんあるのか。初めて知った。それに比べりゃあ演劇やワークショップなんざ、その気になりゃあ身ひとつでどこでもやれる。手軽なもんだな。
結局ウチのスタジオの3階「シアター」で使ってるスピーカーは出力が弱くて、T田くんの望む音量と音質が出せなくて、チョロっと音出しをしただけで撤収となった。路上ライブは結局は実現しませんでしたとさ、というオチになった。
ちょっと音量が小さいし、たまにガサガサと異音が混じるけど、ステキなメロディーじゃん、せっかくあんな重い機材をセッティングしたんだから、予定通りやっときゃいいじゃんと思わないでもなかったが、当のT田くんが「オレの出したい音じゃない」と潔く撤収を決めたんだから仕方ない。オレはT田くんの気持ち、ムチャクチャわかるよ。音ってのは、文章で言うと文体みたいなもんだろうね、きっと。世間は内容ばっかり云々しやがる。が、大切なのは文体なんだ。オレは芝居を書いたり、本を書いたりするがそう確信している。その伝で言えば、音楽で大切なのは、曲のメロディーではなく、それを構成する一音一音の音なんだろう。同じ曲を弾いても弾き手によって一音一音の感じが全然違うってことを、オレは今年の卒業式で初めて実感した。
撤収した後、喫茶店で昼飯を喰いながらT田くんは言った。「ヤなことだけはやらないできましたね」。オレは自分が恥ずかしくなった。その場で求められているものを過不足なく提供できるようになってしまっている自分、バランスが大事なんだとあちこちの顔を立てて、ホッとしている自分。なんて小賢しい。このままじゃクズに成り下がっちまうところだった。
それにしても、とオレは思った。音楽はいい。芝居は上演している間じゅう、取りあえずお客にはその場にいてもらって、情報を取りに来てもらわなきゃ成立しない。文章も同じだ
。読むという形で能動的に読者に関わってもらわなきゃ、内容も文体も提供できない。でも、音楽は違う。そこら辺を全然聴く気もなしに歩いてるおばちゃんやおじいさんの耳にも音の方から飛び込んでいける。耳栓でもしてない限り、音の方からそこらを歩いているだけの人の中に侵食していける。音は強えなあ。これもこの土曜日に発見したことだ。
CAワークスは社会教育系のNPOだ。芸術を通して、社会の諸問題を解決することに寄与するってのが設立趣旨だ。2週に1回くらいずつT田くんに一宮に来てもらって、定期的に商店街で音出してもらったらどうだろう。最初は、なんであの人弾いてんの?って感じかもしれん。が、一月経ち二月たち、半年経つ頃には、今日はあの人がキーボード弾く日だよ、と気に掛けてくれる人も現れるだろう。一年経つ頃には、T田くんの音目当てに商店街を訪れる人が出てくるかもしれない。どう?事務局のK村さん、やってみない?
「芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである」(鶴見俊輔『限界芸術論』より)
でもさ、T田くん、K村さん。オレらちょっと傲慢だったよ。乗り打ちなんて普通しないって。前日にリハーサル、1回やっとかなきゃいけなかったね。ちょっとイベントとか公演打つことがルーティーンになっちまってるんじゃねえかな。オレはそれを一番危惧するよ。

