歯医者の話
おれは歯が悪い。小学校低学年の頃から虫歯だらけだった。
おばあちゃんは、家から一番近い歯医者におれを連れて行った。
診察室と狭い待合室だけの、小さな医院だった。壁は一面白いペンキで塗られていた。ところどころ剥げていた。川沿いにポツンと建って、小学生のおれには何だか近寄りがたく思えた。
歯医者は、元軍医だった。
小学生相手でも容赦なかった。手加減せずにギュンギュン削った。あまりの痛さに身をよじると、
「痛くない!軍隊では歯なんぞに麻酔は使わん!」
と一喝された。
取り立てて腕がいいわけではない。愛想は良くない。取つきにくい感じだった。診察室に患者をリラックスさせるような装飾は何一つなかった。
それでもおれは、歯医者が嫌いではなかった。おばあちゃんに連れられて、せっせと通った。
医院はある日突然閉院した。あっという間に更地になった。おれが6年生の時だ。
母親が理由を教えてくれた。若いホステスと浮気して、土地も医院も財産も全部奥さんに取られてしまったのだと。
「ホント、みっともない」母は吐き捨てるように言った。
ちょうどその頃、小学校の通学路にあるボロボロのアパートから歯医者が出てくるのを見かけたことがあった。アパートの前には朝顔の鉢がいくつもあって、薄紫色の花がきれいに咲いていた。白衣を着てなかったが、間違いなく元軍医の歯医者だった。見てはいけないものを見た気がして、おれは声を掛けられなかった。
歯医者と再会したのは、おばあちゃんの葬式の時だ。おばあちゃんはボケて死んだ。69歳だった。近所の人以外、ほとんどお焼香に来る人はなかったから、歯医者はよく目立った。随分老けていた。中年の女の人に支えられて歩いてきた。
歯医者はおれを覚えていて、そこでおれは聞いたのだった。
若いホステスを好きになった。全財産渡して離婚した。好きな女とはいっしょになったが、土地も医院も、自宅も全部渡してしまったから住む場所もない。世間は冷たくて、誰も救いの手を差し伸べてくれなかった。そんな時、たった一人だけ助けてくれた人がいた。それがおばあちゃんだったのだと。
「アパート探してくれて、2人で住んで、と敷金と礼金払ってくれた。あんたのおばあちゃんは」
歯医者の隣にいた中年の女の人はそのときのホステスだった。二人は長い間遺影に手を合わせていた。
やるなあ、おばあちゃん。おれの知らないところでそんな世話焼きしてたのか。ボケる前、すごかったんだな。
18歳のおれは少し、泣いた。
その後、歯医者とは会っていない。もう亡くなっているだろう。