手紙(承前)

 国民小学校4年生の夏からお店でお世話になっていました。

お父ちゃんに連れられてはじめてお店の座敷に通された時、世の中にはお金持ちっているんだなあって。岡崎でも指折りの造り酒屋だから、当たり前と言えば当たり前なんだけど、家族6人がひと間だけで暮らす我が家とは別の世界で、お座敷だけでも私の家全部よりも広くって、床の間を背にして座ってらっしゃった旦那様が雲の上の人に見えました。

坊ちゃんと同い年だとわかると、坊ちゃんの身に周りのお世話をする仕事を任されました。学校にもいっしょに通えばいいからと旦那様はおっしゃってくれて、その日から私は坊ちゃんとずっといっしょでした。

坊ちゃんはうんと勉強がお出来になった。岩津の神童なんて周りから言われていて、坊ちゃんの鞄持ちをしていた私までが何だか誇らしくて、重たい鞄を抱えて歩くのも苦ではありませんでした。

でも、岩津の人たちは知らないのです。坊ちゃんが毎日毎日どれほど勉強なすっていたか、まるで知らないのです。学校から帰ってから夜お休みになるまで、坊ちゃんはずっと勉強なすっていた。お八つやお夜食を私が持って行くと、私を相手にして少しの間おしゃべりをしてくださるけど、その時のほかは、ずっと机に向かっていらっしゃった。いつでもどこでもどんな勉強でもできるようにと、鞄の中に全部の勉強道具を入れて持ち歩いていらっしゃった。

10歳の頃から坊ちゃんが12歳で岡崎中学校に合格して、電車で岡崎の街に一人で通うようになるまでの2年間、坊ちゃんの重い鞄を持つのが、お店での私の仕事でした。私は知ってます。きっぱり言えます。坊ちゃんは神童なんかじゃない。ほんとに、本当に坊ちゃんは努力のお人です。

お店には本当によくしてもらいました。たくさんの奉公人がいる中でも、私はとてもよくしていただきました。坊ちゃんの身の回りの世話をして、坊ちゃんの話し相手になっていれば、お店のお仕事は何もしなくてもお給金が頂けて、おまけに学校にも通わせてもらえたのですから。10人いたご兄弟の中でも、2男でいらっしゃった坊ちゃんのことを、旦那様は特別にかわいがっていらっしゃった。坊ちゃんが岩津の神童だったからでしょうか。そうかもしれませんね。坊ちゃんもそれに応えようと必死だったのかもしれませんね。これはここに来て、一日一日を過ごす間にふと思いついたことです。この街はお店のある岩津とは別世界です。ここには貧乏人も金持ちもいません。みんな貧乏です。みんな貧乏なら、それが普通だから、誰も貧乏を気にしません。電車は戦争が終わってからひと月くらいで動くようになったけど、この街の人はまだみんな土の上に茣蓙を敷いて眠っています。そんなだから、誰も人のことなんかに気にしてません。だから、誰も人に期待なんかしていません。今日は雑炊を腹いっぱい食べました。何でもかんでも放り込んでぐつぐつ煮ただけのものなんだけど、何が入ってるかわかりゃしなくって、ちょっと怖いけど、それでもおなか一杯食べられるって幸せなことなんだなあって夜空を見上げながらしみじみ思ってたら、明日のごはんの心配をしなくても済んだお店での暮らしのことを思い出しました。そうして坊ちゃんのことを思い出しました。坊ちゃん、坊ちゃんはさぞ大変だったでしょう。期待されるって嬉しいけど、気の重いことなんじゃないですか。坊ちゃんは今でも期待に応えようと必死に勉強なすっていらっしゃるんですか。鞄、重くないですか。持ってあげれたらいいのに。私、ここに来てから、うんとたくましくなったから、どんな重い鞄でもうんこらしょって持ってさし上げるのに。