対話のレッスン

 大府市神田公民館で「対話のレッスン」という続き物の講座をやっていた。先週の金曜日に一区切りとなった。トシを取った男性を受講者として当初は想定していたが、回を重ねるごとに中高生や中年の女性も受講してくれるようになった。受講生がこれほど多様であることは珍しい。私にとっても得難い機会となった。大府市神田公民館の懐の深さに感謝している。

 最終回は「ジブリッシュ」をやった。ジブリッシュについては前回のブログにも書いたので、詳しい説明は省く。

 受講者の中の一人、60代半ば(?)の男性が、ジブリッシュがどうしても言えなかった。言おうとしても一音目が出てこない。それでもなんとか喋ろうと、顔を真っ赤にして口をパクパクさせていた。

 ジブリッシュを言うという一事に対しても、人の反応は本当にいろいろだ。言ったふうな顔をしてごまかす人、ふざけちらして適当に済ませてしまう人、できないとすぐに諦めてやめてしまう人・・・。見ていて、人というのはいろんな反応をするものだよなあと感心する。そうして、ある一つの物事に対する反応には(それがどんな些細な物事であっても)、その人のそれまでの生き方や性格が如実に反映されているのと思ってしまう。そう思うと、何故だかいつも寂しくなる。

 その男性は一人、ジブリッシュを言う努力を続けた。必死で。いつまでも。顔を真っ赤にして。唇をワナワナ震わせて。

 おれは、彼を見てものすごく感動したんだ。おれね、実を言うとね、もういいトシだし、学校の仕事も、演劇も、ワークショップも、NPOも随分とやってきたし、ここらでちょっと力を抜いて、少しずつ少しずつ老け込んで行くのもいいかなと思ってた。心のどこかで。いつの間にか。自分でも気が付かないうちに。

 でもね、顔真っ赤にしてジブリッシュ言おうとしている彼の姿を見てるうちに気づいたんだよ。高齢者になっても、今の自分の限界を突破して苦手なことを何とかやろうと必死になっている人間がいるってことを。達観して、傷つかないところに身を隠して、わかったような顔して批評家みたいになるんじゃくて、上手くいくかどうかわからないけど、それでもなんとか今の自分を変えようと前線に立ち続ける人間がいるってことを。そして何歳になってもそういうヤツはカッコイイんだってことを。

 彼は最後にはジブリッシュを喋れた。本人も嬉しそうだったけど、いっしょに参加していた受講者もみんなとても嬉しそうだった。自然に拍手が起きた。おれもつい自分の思いを喋ってしまった。「おれ、老け込もうって思ってたけど、必死でジブリッシュ喋ろうとしてた姿見て、考え改めたよ。老け込むのやーめた」って。冗談だと思ったのかな、みんな笑ってた。おじさん当人も笑ってた。でもおれは本気でそう思ったんだ。老け込むのやーめたって。おれもまだやれるかもって。おれもせいぜいカッコつけんとなって。

 人が変わる契機を提供できる場に、おれのワークショップがなるといいと切に願う。人は人と出会うことで変わってゆく。対話とは本来、そういう行為の謂いであろう。