手紙

『坊ちゃん。

突然手紙を差し上げる無礼をお許しください。どうしても差し上げなければ気が済まないのです。下手くそな字ですいません。下手くそな文ですいません。手紙など書いたことがないのです。でもどうしても書かないではいられません。

光っちゃんから聞きました。毎日学校帰りに電車を降りて、この街に来ているそうですね。そうして、わたしを探しているそうですね。

坊ちゃん、わたしを探さないでください。お願いです。真どんが坊ちゃんに吹き込んだそうですね。わたしは松本にいると。ほんとうにおしゃべりな真どん。ええ、本当です。わたしは松本で暮らしています。

今、わたしはとても幸せです。毎日を必死で生きています。ごはんが食べられない日もあります。それでも、幸せなのです。(つづく)』

これ?これは手紙。父親の遺品のなかから見つけた。「日記とともに保存」と書かれた文箱に入ってた。丁寧に折りたたまれて封筒に入っててね。宛名も、差出人も、住所も封筒には書かれていないから、誰かに頼んで父親に手渡しされたんだろうな。

藁半紙に鉛筆でびっしり書いてあるんだけど、ところどころ消えちゃってて、読めないところが何か所もある。そこは想像で補って、元の手紙は旧かな遣いなんだけど、読みやすいように今の仮名遣いに直しながら、ブログに載せてみようと思うんだ。

 え?なんでそんなことするのかって?そりゃあ興味があるからだよ。

まだ全部は読めてないけど、手紙の終わりに昭和20年11月、って日付が書いてあった。

昭和20年!敗戦の年だよ。今じゃあ歴史の中の年号だよ。昭和20年、1945年。8月15日、日本、連合軍に降伏。敗戦。天皇人間宣言って。

遠い昔のことで、歴史の年号みたいになっているけど、その年に書かれた手紙なんだよ。 

おれはね、手紙の日付見た時に思ったんだ。そんな歴史の年号みたいな年にも、人間は一人ひとりちゃんと生きていて、一人ひとりにちゃんと思いがあって、喜んだり、悲しんだり、人のことを思いやったりしてる。それって・・・それって、結構感動しちゃうことなんじゃないか。でも、それって、結構忘れられがちなことなんじゃないか、って。

だから、書こうと思ったんだよ。どんな内容か、まだ全部は読めてないからわからないけど、読んで、ブログに書き記す意味はあると思うんだ。当たり前すぎて忘れられていることをもう一度、意識の上に蘇らせることは、芸術の、文学の役割の一つだからね。みんな忘れてないか?歴史って単なる出来事の記述じゃあないんだよ。