中根さん(仮名)の話(続き)

オレが遅刻して会場に着くと、中根さん(76歳)はもう来ていた。

「渋滞ですいません」オレは謝った。ホントは寝坊したんだけど。

「・・・」じいさんは無言だ。

「暑くなりましたね」とオレ。

コクリとうなずくじいさん。気まずい。早く始めよっと。

「前は仕事の話をお聞きしました。今日は、あの・・・奥さんとの話を・・・」オレはオズオズって感じで口を開く。

「特にない」じいさんは早い反応でピシャリと答えた。

なあ、じいさん。「特にない」って言われて、ああそうですか、って引き下がるんだったら、休み潰してわざわざ来たりしないんだよ。

「ご結婚して何年になりますか」どこに鉱脈があるかわかりゃしない。じいさんのペースが変わるまで、ひたすら質問し続ける。

「50年」

「半世紀じゃないですか。おめでとうございます。てことは、結婚したのはおいくつ・・・」

「25」

「それって、昭和・・・」

「48年」

事実は衒いなく答えられるんだな。

「どうやって知り合われ・・・」

「見合い」

早い。早いぞ、じいさん。

「気に入ったんですね、お見合いで」

「・・・可もなく不可もなくだったから」じいさんの答えるペースが乱れた。気持ちとか解釈とか、そういうの言うことに慣れてないのかもしれん。

「でも、すごいじゃないですか。可もなく不可もなくで50年ですもんね」

「・・・」じいさんは黙ってしまった。

「新婚旅行とか行かれたんですか」オレは話題を変えた。

「・・・ああ」とじいさん。

「どこ行かれたんですか」

「九州」

「九州のどこへ?」

「宮崎、長崎」

「へえ」相づちを打ってメモしているとじいさんが訊いてもいないのにしゃべり出した。

「列車全部が・・・」

思わずオレは顔をあげて、隣に座るじいさんを盗み見た。こんなの初めてだ。オレが質問してないのに、自分で話し始めるのは。しかとは確認できないが、じいさんは、すこし、笑っているように見えた。

「列車全部が新婚さんで・・・駅では、名前の札を持ってタクシーが待ってて・・・ホテルも・・・」

「全館新婚さんばっかですか」オレはすかさず合いの手を入れた。

「そうそう」じいさんの声は明らかに弾んでいた。

以下、じいさんの話をかいつまんで書く。

子どもは2人生まれた。男と女。もう50になるから、この頃は疎遠になった。孫ももう大きいから、小さい頃のようには遊びに来ない。子育ては妻に任せっきりだった。別にそれを悔いたりはしていない。長い休みには家族4人で旅行に行った。北海道とか、日本のあちこち。高山とか下呂に行ったときは楽しかった記憶がある。今は奥さんと二人っきりで暮らしている。妻は一方的にずっとしゃべってくる。家のこととか、テレビのこととか。自分は「うんうん」とうなずくくらい。妻の話はロクに聴いてない(右から左に筒抜けという仕草をじいいさんはした)。

「おくさんのこと、お好きですか」オレは訊いてみた。

「・・・慣れちゃったから」じいさんは真顔で答えた。

「・・・浮気とかしたことあります?」

「・・・」じいさんは薄笑いして答えない。

ダメだろ、じいさん。ここはいつもの断定口調で「ない」って言わなきゃ。したことあるってばれちゃうよ、あんた。

「慣れ親しんだ奥さんが亡くなると、やっぱり困りますよね」オレは訊いた。

「・・・先に死なないといかん」じいさんは言った。

「中根さんが?」

「そう」

「なんでですか?」

「・・・ごはんが困る」

まさか「さみしいから」なんて言うとは思ってなかったが。直截すぎる答えだ。

「・・・なるほど。では最後の質問です。50年連れ添ってすっかり慣れてしまった奥さんと、これからどうやって、どちらかがお亡くなりになるまで過ごして行かれますか」

「・・・」じいさんは黙り込んだ。

聞き始めてから1時間を超えている。ここまでだな。オレはノートを鞄に仕舞って立ち上がった。

「自分が・・・」中根さんは突然話し始めた。

「自分が、ガマンすればうまくやっていけるから、このままやっていく」じいさんはキッパリと言った。いつもの断定口調に戻っていた。

オレは言葉を書き留め、じいさんに言った。

「これまで2回、お話を聞かせてもらいました。あと、1回、訊かせてください。1回目は仕事のお話でした。今日は家庭の話を伺いました。あと1回、次は、これからの将来の話を聴かせてもらおうと思っています。お付き合い願えませんか」

コクリ、とじいさんは頷いた。

オレはハナから今のじいさんの話を聴こうなんて思っちゃいない。過去の話、じいさんがまだ若くって、バリバリやっていた過去の話を懐かしく話してもらえればそれでよかった。でも、今日あんたと話してるうちに思いついちゃったんだ。76歳のあんたが未来をどう語るか、知りたくなっちゃったんだよ。

玄関までじいさんを見送って、こそっと訊いてみた。

「さっき言ってたガマンって何なの?」

じいさんは答えた。これもこそっと。「酒・・・飲みたいんだ」

オレはなんだか嬉しくなってしまった。答えの内容にではない。こそっと話す、その感じがなんか仲良くなれたような気がしたんだ。オレはじいさんに言ってみた。

「なら、次の話が終わったらさ、いっしょに飲みにいこうよ」

じいさんは、一瞬オレの顔を見、そのあとコクリと頷いた。

じいさんは、少し笑っていた。笑ったじいさんの顔をオレは初めて真正面から見た。