『帰郷』公演まで1週間

今日はODNJというNPOの中部支部勉強会の講師に呼ばれて、ワークショップをやってきた。10時から3時まで。いっしょに参加してくれた人、本当にありがとう。参加者は皆、真摯に取り組んでくれた。オレも精一杯のワークをした。時間がもっとあったらな。今日のメンバーの皆さんとまた続きがやりたい。企画してくれないかな。

オレね、岩波書店の岩波ジュニアスタートブックスというシリーズから、『コミュニケーションの準備体操』という本を出すことになったんだ(共著)。ワークショップの合間に、その本の宣伝、演劇トレーニングジムの宣伝、そして1週間後に迫った『帰郷』の宣伝と、オレ自身の宣伝も存分にさせてもらった。ホントに感謝だ。

他所の団体に呼ばれてワークショップをやるたびにオレは考える。「なんで、なんのためにオレはこんなワークショップをやってんだろ?」って。それを考えないとやれないんだよね。自分の立ち位置を確認しないと。特に、今日のようにまったく初めましての人に向かってやるときは。

その時々でいろんな理由付けをしてやってきた。若い頃は随分と大層な理由を拵えて、ワークショップをやっていた時期もあった。が、今回、ようやっと自分の本音を探り当てた気がする。「おまえは何のために演劇ワークショップをやってんだ?」と訊かれたら、今のオレはこう答える。「淋しいからだ」

淋しいんだ、オレ自身が。学校で勤めていても、日々暮らしていても。その淋しさはたぶん、誰が悪いわけでもなく、オレ自身がメンヘラだからってわけでもなく、もっと根源的なものなのだろうとオレは思っている。人間存在の根幹に係わるというと大変大袈裟だが、そんな感じの淋しさなのだ。それはたぶん、夏目漱石が「私の個人主義」のなかで言及したものと同質のものなのだろうと、オレは思っている。

近代以降の人間が孕んでしまった「淋しさ」をどう克服してゆくか。そのヒントが、オレのやってるワークショップの中にあると、オレは実感している。あるいはオレの創っている芝居の中にあると、オレは感じている。個々のワークショップのメニューや、個々の芝居の中身のことを言っているのではないから、間違っちゃダメだよ。ワークショップの場、芝居つくりの場で起きていることのなかに、「淋しさ」を超克するヒントがあるように、オレは思うんだ。

淋しさはいや増している。特にAI技術が急速に発達してきた今となっては。

淋しいのはいやだよ。だから、オレはワークショップをやり続けるし、芝居を作り続けるんだろう。

さあ、『帰郷』公演まで1週間だ。チケットを売らないと。たくさんの人に観に来てほしいな。