『帰郷』バックストーリー④
ピーターパン
時次郎は、出奔後、学校回りのミュージカル劇団にくっついて日本全国を回っていた。きっかけは娘の高校の芸術鑑賞行事にPTAの役員として出席した時に見た「ピーターパン」であった。
宙を飛ぶピーターパンの、緑色のタイツ!時次郎は役員席で思わず立ち上がった。
この人たちは、と時次郎は思った。この劇団の人たちはピーターパンなのだ!そうして、この学校回りの劇団は、大人になることを拒否したピーターパンたちの棲家“ネバーランド”なのだ!
20で子どもが生まれ、22で家業を継ぎ、25で自社ビルを建てた。27で潮目が変わり商店街は左前になった。それでもアーケードの大改修を成し遂げ、30からは商工会議所の最年少役員だ。家族を飢えさせないように、商売が成り立つように、商店街に人の流れが戻るように、期待された役割をずっとずっと頑張ってきた。オレはまだ35だぞ!それにしてはいろんなものを背負いこみすぎてやしないか?オレはこのまま全部を背負いこんで、この街で、あのシャッター街で、一生を終えていくのか?おれはもう・・・アップアップだよ。
おれも飛んでみたい。一度でいい、あの緑のタイツをはいて、ネバーランドの住人になってみたい!
芝居がはねた後、時次郎は劇団の団長に頼み込んだ。自分も旅公演に御一緒させてください。
団長にしてみれば、市の商工会の役員の頼みである。ここで断れば、今後の営業に響くかもしれない。
「よござんしょ。気の済むまでいっしょに全国を回りましょうや」団長は即答した。
「いや、気の済むまでなんて中途半端な気持ちではありません。私を鍛えてください。私はきちんと役者をやりたいのです。ピーターになって宙を飛びたいのです」時次郎は必死で訴えた。
娘の通う高校で公演のあった日の翌朝、まだ夜も明け染めぬ一宮駅前に、劇団名が大書されたトラックが停まっていた。その助手席に、時次郎の姿があった。トラックは、次の公演先の日立市の中学校へ向けて出発するのだった。「さあ、行こう。ネバーランドへ」時次郎は心の中でつぶやいた。母、妻、娘のことは頭から離れなかった。でも、と時次郎は自分に向かって言い聞かせた。でも、おれは長いこと自分を殺してやってきたんだ。家族のため、店のため、商店街のために、自分を殺してやってきたんだ。一遍でいい、一遍でいいから、おれだって夢を見たいんだ。ピーターになって宙を飛んでみたいんだ。
時次郎は、35にしてはじめて役者の修行を始めた。10代の若い子に交じって「外郎売」を覚え、ストレッチをした。旅公演にずっと帯同し、仕込み、バラシ、すべて、若い団員とおなじように行った。大広間に茣蓙を敷いて、若い団員に交じって雑魚寝もした。店名義の通帳を出がけに持ってきていた。いい金蔓であった。劇団員はおろか、団長までが、金に困ると時次郎に無心にきた。
時次郎の初舞台は平成21年(2010年)36歳の秋であった。念願通りピーターパン役だった。緑色のタイツを衣装係から渡された時、時次郎は思わず涙した。
転落1
団長以下すべての団員が、時次郎のことを「若旦那の気まぐれ」と思っていた。一度舞台を踏めば、満足して元の暮らしに戻るだろう。それまでせいぜい金を毟り取ってやればいい。
しかし、時次郎は一宮には帰らなかった。芝居には魔力がある。一度、舞台で客の視線に晒される快感を味わった者は、そう簡単には足抜けできない。
「私は一宮には帰りません」時次郎は団長に言った。「みなさんとこれからも旅公演を続けるつもりです。ピーターパンは私です。私はピーターパンです。もうこれ以上、考える余地のないくらい、私はピーターそのものなんです」
時次郎は、通帳を団長に手渡した。「これが私の全財産です。このお金、劇団に寄付します。だから、私をここに置いてくれませんか。何でもやります。もちろんピーターがやりたいけど、もっと若くて活きのいい役者が出てきたら、素直に役を変わります。どんな役でもいいんです。もし年をとって、からだが動かなくなったら、裏方でも雑用でもなんだってやります。だから私をここに置いてください」
団長は途中から時次郎の衷心からの訴えをまるで聞いてなかった。渡された通帳を開いて、残高の多さに目を奪われていた。通帳には、店を担保にして銀行から借り入れた金が、そっくりそのまま入っていたのだ。
団長は時次郎の手を取った。「時さん、よく決心してくれた。今日からおまえさんも正式にウチの劇団の一員だ。この際だ。わたしも正直に言うよ。わたしゃね、おまえさんのことを見くびってたんだ。大店の旦那の気まぐれで、言ってみりゃあ面白半分で、わたしらと旅公演をしてるんだと、つい今、おまえさんの言葉と、この通帳を見るまでずっと思っていたんだ。堪忍しとくれ。わたしにゃ、見る目がなかった。そうかい、そうかい。よしわかった。この通帳はわたしが大事に預かっとくよ。こんなもん、持ってたんじゃあ、芝居に対する気持ちが、揺らぐ元になるからねえ」
その夜、団長は劇団員全員を集め、井口時次郎が正式に劇団の一員になったことを披露した。伊香保温泉の大広間を借り切って、お披露目の宴会を開いてくれた。緑のタイツをはいて、上座に座った時次郎は、天にも昇る気分だった。