11月30日。今日という日に考えたこと

今日は11月30日。オレの誕生日だった。それだけではない。今日は、大切な仲間の結婚式があった。

オレ自身は世間並みの行事ごとをすべて拒否して生きてきた。お正月、年賀状、お盆、大晦日、クリスマスのような年中行事も、結婚式や葬式などのイベント事も、なんなら両親の墓参りも。でもそれはオレが決めた生き筋で、他の人に強制する気など、さらさらない。

良い結婚式式だったという報告のメールを夕方受けとった。良かったなあと心から思い、遠くから一人で祝福した。そうして返す刀で、オレはこれからもきっと、夜でもサングラスをかけ、上から下まで黒一色の服を着て、思ったことを言い散らかし、己の信じることを力の限りやって、生きてゆくのだよなあと改めて思った。

しかし、なんでオレはこんなふうになったんだろ?いつから?何がきっかけで?・・・と考えていたら、意識の底からこんな文章が浮かび上がってきた。

「なぜ小説を書きはじめたか、簡単にいえば、世の中に受け容れられない自分の感受性や感覚に場所を与えたいという気持ちがはじまりである。」(吉行淳之介『私はなぜ書くのか』より)

「この世に置かれた一人の人間が、周囲からの理解を容易に得ることができなくて、狭い場所に追い込まれてゆき、それに蹲ってようやく掴み取ったものをもとでにして、文学というものはつくられはじまる。最後には、ある程度広い範囲の共感を掴みうるにしても、まず狭く狭く追い込まれるのが、文学にたずさわるものの宿命である。いや、そういう状態になったところで、文学というものにたいする目が開くのである。」(同上)

引用した文章は20歳の頃に読んだものだ。これらの文章が収められた『私の文学放浪』の文庫本は、40年経った今でもオレの手元にある。表紙が取れて、頁も黄ばんでいる。何度引っ越したか知れやしないが、捨てられずにずっと持っている。

個人全集を読みきった小説家はさほど多くない。夏目漱石、太宰治、石川淳、そして吉行淳之介。たったそれだけ。お寒い限りの読書量だが、これらの小説家の言葉は、意識の中に沈殿し、オレの与り知らぬところで、オレの行動や嗜好を決定づけているに違いない。

結婚を寿ぐつもりで書き始めた文章だったが、自分の生き方に言及して終わってしまった。自分の誕生日と、大切な仲間の結婚式が一遍にあった、今日という日に相応しい内容になったのかもしれない。