自分という賭け金を賭ける営為

慣れないことをした。

自分から望んで、心理関係の勉強会の講師をしてしまった。

リベ国は心理とは関係ない。リベ国は心の問題を心の問題として扱わない。リベ国は、心の問題もからだの問題として扱う。行動の問題として扱う。リベ国は個に着目しない。他者との関係に着目する。

全然あかんやないか。場違いやで、ホンマ。

まずは、今日付き合ってくれた心理関係の皆さん、すんません。ま、珍獣がなんかの間違いで紛れ込んだと思うて堪忍してつかあさい。

「間(あいだ)をつくる」という言葉を、講義の最中、オレは何度も口走ったそうだ。最後の質疑応答の時間に、「間(あいだ)が作れたかどうか、どうやったら判断できるんですか」と質問を受けた。大変良い質問だ。

オレはおおよそこんな感じのことを答えた。「ふたりの間に、私でもあなたでもない〝何か〟が生まれて、その〝何か〟から影響を受けて、あなたも変わるし、相手も変わる。それができたとき、〝間をつくることができた〟と言っていいのではないでしょうか。だからですね、自分だけは高みに立って相手を分析し、相手に一方的に変われ、変われという姿勢でいるうちは、目の前にいる人と、間(あいだ)を作ったことにはならないんではないか、と。みなさんは対人援助のお仕事をされていらっしゃるそうですが、みなさんは、援助(この言葉もなんだかエラそうですね)をする対象の方と間を作れていますか?それとも、自分は一切変わらず、何か高みから施しをしてあげてるだけなのですか?もし、みなさんが、後者のような姿勢をお持ちなら、私なら心を開かない。関係を結びたいとも思わないです。いかがですか?」

おお、書くと整理できてよいわ。

ついでに言おうと思って言わないでおいたことを、ここでは書いておくことにする。これ、ホントは言わないとイケなかったんだけど、人の感情をあんまり逆なでするのも良くないかなあって、言うの止めちゃったんだ。

「指先のシンクロやりましたね?一生懸命2人のペースを作ろうと試行錯誤したペアの方、うまくできようができまいが、あなたたちは〝間をつくる〟努力をなすったのです。2人のペースを作る難しさ、わかりましたよね?やってみて初めてわかるんです。やってくれてありがとう。でもね、みなさんの中には、その努力すら放棄していらっしゃたペアがありました。やろうともせず、ふたりでおしゃべりして、周りを睥睨なすって、挙げ句、練習の時間に携帯をいじくってらっしゃった方もおられました。私、一介の講師ですから、声を荒げて怒ったりしません。生徒ならどやしつけます。私、生徒のこと、大事ですから。怒ったりはしませんが、そういう方がいらっしゃったこと、大変残念に思います。あのね、目の前の人と、関係を作る労を惜しむようでは、そのような姿勢をお持ちのようでは、ハハハ、対人援助の仕事が聞いて呆れます。もう、薹が立ってらっしゃるんじゃないですか?いやあ、からだは、行動は正直ですね」

そう言やあ、水曜日に東洋大学哲学科の稲垣諭さんが、オレのリベ国の授業を見に、わざわざ東京から来てくれた。授業の後で長いこと話をした。大変大変気分の良い時間だった。いっしょにいて違和感を感じることは皆無だった。

今日お会いした人をたちを心理系の人たちと仮に規定してみる。稲垣さんは哲学者だ。そしてオレは教育を生業にしている。心理と哲学と教育。3者はどう違うのか。

なんか心理だけは、営為に自分という賭け金を賭けてない気がするんだよね。自分が傷つかなくて済むっていうかね。

そこらへんにすごく違和感を感じたんだろうね、きっと。

オレは今、リベ国の本を書いている。メインとなる原稿は一通り書き上げた。オレの書いた文章を読んだ編集者は、「身体に文学を刻み込むレッスン」と評してくれた。

文学ねえ・・・。文学なんざ、自分という賭け金を賭けなきゃいけない営為の最たるもんだ。