文章、勇気の要る営み。

年の瀬です。1年を振り返ります。

今年は特別な年でした。

11月の公演を以て、清水が引退であるとわかっていました。その最後の公演に向かって、1回1回の舞台が良きものになるよう心を砕き、彼女の演技を目に焼き付けておこうと誓ってスタートした1年でした。5月に一人芝居「悲劇VS喜劇」、10月に街や建物とコラボした新趣向の芝居「帰郷」、11月には遠く金沢で一人芝居「月の光」。この金沢公演が清水の最後の舞台となりました。

演劇は消え去るものであります。映像に残しても、所詮それは映像、単なる記録であります。役者の発するエネルギー、それを受けて客席の空気が変ってゆく、あのなんとも形容しがたい空気感、それは同じ場を共有したものだけが感じ取ることのできるものです。あの空気感が芝居の本質であろうと、私は思います。映像では空気感は映し出せません、残念ながら。1回1回の公演、慈しむような心持で芝居という場に身を置いて過ごしました。清水万鳳という稀有な役者の芝居、しかと胸に刻んだつもりであります。清水さん、本当にお疲れ様でした。いいものをたくさん観せてもらいました。いい思いをたくさんさせてもらいました。

私、学校の教員もやっております。今年の4月、新しい科目「リベラルアーツ国語」がスタートしました。3年生全クラスが、クラス単位で受ける授業です。私が昨年の八月から企画立案すべてに係わり、準備してきた授業です。毎時間の授業の指導案を欠かさず書くことを自分に課しました。私以外の先生も授業をやります。指導案を書いて、その内容を噛み砕いて教え、時には目の前でやってみせる時間を毎週取りました。4月、11月に中日新聞が取材に来てくれました。12月中日新聞朝刊教育面「なまぶ」欄に大きな記事にして取り上げてもらいました。

11月には3冊目の本が刊行されました。岩波書店からです。父親は生きていたらさぞ喜んでくれたことでしょう。なんせ岩波ですから。父は戦後民主主義を信奉しており、岩波信者でしたから。書名は「コミュニケーションの準備体操」です。中学生向けのシリーズ、岩波ジュニアスタートブックスの1冊です。2006年からずっとやってきた授業「演劇表現」のエッセンスをきちんと盛り込むことができました。出版できて良かったと心から思っています。

このブログは、一体何人の方が読んでくだすっているのか、私にはわかりません。わかりませんし、仮に何人かの方が読んでくださっているとしても、こんな個人的な1年の振り返りなんぞに興味を持つ人はいないのではないか。いや、きっといないと思う。なら、なんでこんなことを書いてしまったのでしょう。こんな内容は、日記かなんかに書いて人目に付かないようにしまい込んでおくのが嗜みというものだと、私自身わかっているのです。でも書いた。書いて公にした。どうしてそんな気になったのか。書くことがなかった?それもあります。自分大好きだから?それもあります。でも、それだけが理由ではありません。

先にも書きましたが、芝居は残りません。その場で消え去る運命です。儚い営みです。でも、だからこそ尊い。だからこそクールです。それにくらべて、文章は残ってしまいます。誰一人読まずとも、文章は残ってしまいます。上手かろうが下手だろうが、価値ある内容だろうが、単なる個人の自己満足だろうが。だから怖ろしい。そしてちっともクールじゃない。演出やって、芝居作ってきた人間からしたら、文章を書くこと、それを公にすることは。言ってみれば、恥じかきの所業なのです。

実は私、そんな怖ろしい場に、本格参入したいと目論んでいるのです。だから、まずはウソのない文章を書けるようになろうと思い、自分を晒す練習をしようと思い、簡単に言うと恥をかくことに慣れようと思い、つらつらと自動筆記のような具合で書いてみたのでありました。アメリカの小説家、チャールズ・ブコウスキイは言ってます。〝書こうと思うな、ただ書け〟と。消え去るものにずっと従事してきた、恥をかくことを良しとしないでやってきた人間にしたら、文章を書くというのは、なんと難しい、勇気の要ることでしょうか。