悔いの物語
必要があって、「演劇表現」「リベ国」の年譜を作っている。
20年やってきたみたいだ。ようやってきたな。
こんな人生になるとは思っていなかった。ま、具体的にこうなろうって志が予めあったわけではないけど。
たくさんの台本も書いてきた。年譜に載せたものもあれば、載せたくないと判断した作品もある。
台本をつらつら見返して見て気づいたことがある。
後悔。悔い。たくさんの作品に書き込まれていた。ビックリだ。「笑ってよ ゲロ子ちゃん 殉情編」「帰郷」「名古屋ー新大阪」「米原ー金沢」。大人向けに書いた作品はみんな悔いを抱えながら、それを呑み込んで生きてる人間の物語だった。
悔いの物語を書こうと思って書いたことなど一度もない。書き終わって稽古しているときだって自覚していない。今回、ちょっと離れた時点から過去に書いた作品を振り返る機会があったから、要するに俯瞰する機会があったから、「あ、オレの作品ってそうなんだ・・・」と自覚しただけのことだ。
きっとオレ自身がたくさんの悔いを抱えて生きてるんだろうね。自分じゃあ自覚していないけど、無意識で「あのときああしとけば」とか「あのときあれしなければ」とか、思い続けてるんだろうね。それが物語(台本だけど)を書くと、ひょいと顔を出すんだろう。滲み出るんだろう。
どんだけ悔いても、時間は戻らないし、どれほど愚かしくても、自分は自分の人生を生きなきゃいけないんだよ。そんなこたあ百も承知だよ、勿論。いいトシなんだから。承知なんだけどさ・・・割り切れないんだろうね、心の中じゃあ。
だから、ひょいとね、悔いがペン先から滴って、物語になっちゃうんだな。
そう考えれば、これまで書いてきたどの物語(台本)も、主人公はオレ自身ってことになるな。
ま、自分っていう根っこがある物語を書けている分だけ、マシなような気がするが、後悔がオレの根っこか・・・。しゃあないけどさ。
どうせ書くなら、あっちにぶつかり、こっちでこつかれしながら、それでもなんとか生きてるヤツ。何かに必死になって、周囲から迷惑がられたり、バカにされながら、それでもそれを止めることができずに、余裕を失ってしまっているヤツ。やっちゃいけないことをやっちまって、後悔しているヤツ。そういうヤツが親しい気持ちで読めるような物語を書きたいもんだ。
オレが憎むのは、と、ここまで書いてきて急に思ったよ。オレ、エラそうに人生を俯瞰して見ているヤツ、嫌いだな。余裕をかまして人を世界を評論するヤツ、大嫌いだな。

