夢の跡
オレが教員になってすぐの頃の話だ。「友くん、ちょっと出かけよまい」と母親に突然言われて、父親の運転する車に乗った。山の中に車は入っていって、「余暇の森」と立て看板がある別荘地に乗り入れた。急な斜面を登った先には、山小屋が建っていた。「これ、いいだらあ」山小屋の前で車を降りると母親は言った、「これ、いずれ友くんのもんになる別荘」。父親は、鍵を取り出し、慣れた手つきでドアを開けて、オレを中に招き入れた。20畳くらいのフローリングのワンルーム。広い木製のベランダ。ベランダを通り抜けると別棟があって、そこには畳敷きの茶室があった。フローリングのワンルームの奥には台所とトイレと風呂。風呂の戸を開けると、良い匂いがした。「いいだらあ、風呂は総檜♡」母親がオレの背後から言った。父親はゴリゴリと豆を挽いて、プロパンガスの2口コンロでお湯を沸かして、みんなでベランダでコーヒーを飲んだ。飲みながら母親は、「いずれ友くんのもんになるでね」ともう一度言った。ベランダからは、鬱蒼とした木々の切れ間から下山の山が見えた。立ち上がってこれも木製の柵から身を乗り出して眺めると、別荘の下には小さな川が流れていた。耳を澄ますと、川の水音が聞こえた。実家のある岡崎から車で1時間ほどしか離れてないのに、標高が高いためか、ベランダでじっとしていると少し肌寒く感じた。
「2人の退職金で買ったんだ」父親は言った。「骨董もあるよ」母親は言った、「それ(ト、コーヒーを飲んでるカップを指して)、古伊万里だよ」。
両親は、オレに黙って別荘を作って、急に連れてきてオレを驚かせようとしたのだろう。オレがどんな反応をしたかはまったく覚えていないが、両親が期待したような反応をきっとしなかっただろうと思う。
帰りがけに「余暇の森」という看板のすぐ脇ある店屋で、山菜そばを食べて帰った。店の中には骨董や土産物が並んでいた。父親も母親も店の人と昵懇らしく、くつろいだ様子だった。オレはとても気まずかった。はやく岡崎の家に帰りたいと思いながら、山菜そばを黙って食べた。
あの時、父親も母親もちょうど今のオレくらいの年齢だったはずだ。
年をとるのは難しい。あの日のことを思い出して改めて思う。
若い頃のオレはバカだったから、言語化できなかったけど、小川のせせらぎをBGMに古伊万里のカップでコーヒーを飲みながら、えもいわれぬ違和感を感じていた。
年をとって、ちったあ言葉を覚えた今のオレは、あの日の違和感をこう分析する。「余暇の森、別荘、総檜の風呂、古伊万里、山菜そば。何なんだよ、そのプチブル趣味は?あんたら組合の闘志じゃなかったのか?マルクスだ、レーニンだ、毛沢東だと毎晩毎晩高校生のオレに、洗脳するように語ってきかせたのと同じ口から、そんな言葉が出るとは思わなかったぜ。あれは嘘だったのか。オレは信じてのに。オレもあんたらみたいに生きたいなって、信じて尊敬してたのに・・・」
もう一度書く。年をとるのは難しい。なんで人は変わっちまうのだろう。
父親も母親ももうこの世にはいない。退職金をはたいて買った別荘もオレが一切使わないものだから、きれいさっぱり朽ち果てた。骨董だと母親が目を輝かせた古伊万里も偽物のガラクタだった。山菜そばを食べた店屋も、もう商売はやっていない。ていうか、「余暇の森」という看板も、今では朽ち果てて、分譲別荘地自体が、あるのだかないのだかわかりゃあしない状態になっている。あの日からもう40年近く経つ。しょうがないと言えばしょうがない。
3たび書く。年を取るのは難しい。父親も母親も、長いこと辛抱して働いた金で夢を買ったのだ。それをオレは非難しない。非難する権利もない。でも、とオレは思う。オレは、父親も母親も大好きだが、年をとってあんなふうになるのは、やっぱりごめんだ。
先日、豊田市から別荘の税金が払われてないから払え、という通知が来た。不動産屋に相談しても、「あの場所じゃあ、とても買い手が付かないだろうし、更地にするにもあの斜面じゃ重機を入れることが出来ないから、解体費用がバカにならないですよ」と言われた。仕方なく売ることも諦めて、相続したままずっと持ち続けている。母親が言ったとおりになったわけだ。別荘はオレの持ち物になった。オレは毎年わずかばかりの税金を払い続けている。
4たび書きたくなったが、くどいからもう書かない。が、カッコつけるのもシンドいなあと年とともに、しばしば思うようになった。擬態としての老人を演っていたほうがきっとラクなんだろうな、しばしば思うようになった。演っているうちにきっと内面まで老人になっていくのだろう。世の老人たちはみんなその手順で、老人になっていったんじゃじゃないか、とこのごろ思う。
老いへの誘惑はなかなか手強い。一度、下山に行ってみようか。朽ち果てた、両親の夢の跡を見てみようか。ああ、あんなふうになったらイカンと自分を奮い起こす契機になるかもしれない。

