咬まれる

映画『JFK』を観た。主人公の地方検事は、ケネディ暗殺事件の真相追及に執念を燃やす。世論の非難を浴び、家族からも反発されても、彼は追及をあきらめない。なんであんなに頑張れるのか。

この映画の主人公の彼ばかりではない。アウェイな状況になっても、それでも自分の説を曲げなかったり、活動をやめなかったりした人間は、たしかにいる。ジョンレノンだって、あの当時のアメリカでラブアンドピースって結構怖かったんじゃないか。大杉栄だってそうだ。親鸞だっておんなじ人種だ。アウェイな状況でも言い続ける、やり続ける。迫害を受ける。気ちがい扱いされる。

人口に膾炙した有名人ばかり挙げたが、きっと名もなき人の中にも、自分がこうと決めたことを、周囲の反発や無理解に囲まれようと、やり続けた人がいるにちがいない。

再び問う。有名無名拘わらず、有名無名に関わらず、なんでやり続けられる人と、頑張り切れない人がいるのだろうか。

オレは刈谷東高校の昼間定時制に20年以上にわたって勤めている。いろんな理屈をつけてきたけど、結局は好きで勤め続けているんだ。それから、演劇的手法を使った授業やワークショップ(=「演劇表現」「リベラルアーツ国語」)も、20年近く続けている。オレもきっと周囲にどう言われようと、やり続ける仲間なのだろう。三度問う。なんでオレ自身、アウェイな状況の中でも(長くやってりゃあ、そういうときなんてザラにあるよ)、続けてこれたのか。

良いな、やってみたいなと思ってやりはじめ、そのうち意地になって続ける時期が来て、もうここまでやったんだからと止め時を失って・・・なんて一旦は考えてみたが、いやいや、どうもそれだけじゃあ納得がいかない。何か、違う。

咬まれたんだ、きっと。続けてきたその事柄に。何に、いつ、咬まれるか。それはわからない。でも、何かの拍子で、咬まれてしまったんだ。自分のことを振り返ってみて、そう考えるのが一番シックリくる。そして、咬まれたらもうおしまいなんだ。なんでかわからない。でも、一旦咬まれたらおしまい。続けてしまう。好きなんて軽いもんじゃない。使命感なんてもんでもない。そんな悲壮な感じとは違う。やらないでは、考えないではいられない。やめられない。サルのオナニーみたいなもんか、何かに咬まれるって。

咬まれることは幸せなことか。自分の来し方を振り返ってみて、一概にそうとは思えない。だが、繰り返しになるが、咬まれたらおしまいなんだ。幸不幸なんていう基準とはきっと別のことなんだと思う。

だから今日もオレは、膝痛の足を引きずって、精一杯カッコつけて、演劇表現のワークショップに行くんだ。