リベラルアーツ国語について(目的)
3回にわたってリベラルアーツに係わる話を書いてきました。話が取っ散らかって収集がつかなくなりそうです。そろそろまとめに入ります。
まずはおさらい。前3回分ではこんなことを書きました。
・リベラルアーツ国語なる科目を始めた。リベラルアーツって何?いろんな人がその人なりの定義をしている。なら、オレも定義しなきゃ。
・骨身に沁みた定義付けが大事。オレの立脚点は、20年にわたる昼間定時制での勤務と、その間に出会った生徒たちだ。(あ、あとは演劇ね)
・ウチの学校の生徒たちは、身を守るために“殻”を被って己を防御している。長く被った殻はやがて剝がれなくなり、自身を傷つける。殻を壊す/引き剥がす必要がある。
・リベ国は、ウチの生徒が人と接することに怯えなくなったり、集団の中でビビらなくなったりするために作った。
3回も書いた割には、たったこれだけのことしか書いてないのですね・・・。
気を取り直して、続きを書きます。
リベラルアーツ。直訳するなら「自由になるための技」でしょう。したがってリベラルアーツ国語とは、「自由になるための技としての国語の授業」という意味になります。
今、わたしは、「自由になるための技」と書きました。そもそも、ことさら話題にしなければならないほど、わたしたちは不自由なのでしょうか。みなさんはどう思いますか。不自由だと思いますか。それともさほど不自由を感じていませんか。
わたしは、不自由だと思っています。わたしたちは意識する、しないに係わらず、いろんなものに“縛られて””生きているからです。
常識に縛られている。人目に縛られている。自身のコンプレックスに縛られている。自分の過去に縛られている。こうとしか考えられない自身の思考パターンに縛られている・・・。列挙すると、生きることは縛られることなのかと感じてしまうほどです。この状態を不自由と言わないで何と言うのでしょうか。わたしたちを“縛る”ものは無数にあるのです。その中でも、最大のもの、最強の敵は、“”人目”であると、わたしは断言します。
人目。人からの評価、人からのアクション、あるいは、やや概念的ですが、他者性と言ってもいいでしょう。
「実際に人にAと言われた/された、あるいは人にAと思われてるんじゃないか/されてるんじゃないかと想像する。で、傷ついて、これ以上傷つかないように殻を被り、身構えを作りはじめる」
Aにはあらゆるネガティブな言葉や行為が代入できます。
フランスの哲学者サルトルが、「地獄とは他人のことだ」と書いているのが思い出されます。
人目、他者のまなざしから、いかにして自由になるか。そのための具体的なレッスンとして、わたしは「リベラルアーツ国語」という科目を作ったのです。
(つづく)