ブーフーウーの老後(3)
ウーの朝はとても早いです。4時にはもう、布団の中でじっとしていられなくなって飛び起きてしまいます。
朝は目ざめのトマトジュース。これはウーが決めた日課です。「ブハーッ」背筋を伸ばし、腰に手を当て、ゴクゴクと喉を鳴らしながらコップ一杯のトマトジュースを飲み干します。次は庭に出てご長寿健康体操です。まだ日の出前で真っ暗なのですが、そんなこと、ウーは気にしません。とにかくじっとしているのが我慢できないのです。この体操が、近頃のウーのお気に入りなのです。市の高齢者対象のご長寿教室で、美豚のインストラクターさんと出会って以来、一回も欠かさず講座に出席しています。
「これがまた可愛いんだわ。レオタードも薄いピンクでさあ」日の出ごろに、見習いの職豚さんがたまたま道具を取りにやってきました。ウーは目ざとく見つけて今日もおしゃべりをはじめました。「こないだの教室でさ、お上手ですね、何かからだを動かすお仕事されてたんですか、なんておれに声かけてきたわけさ。もちろん向こうからだよ。まだ20代じゃないかなあ。で、おれ、言ってやったんだ、おれ、大工の棟梁だったんで、お困りの時は遠慮なく言ってください、先生のご自宅、なんか調子悪いとこないっすか、なんかあったらいつでも仰ってくださいまし、すぐ若いの行かせますからってなあ。そしたらニコッって笑うんだよ。いやあ、あの笑顔ね。あの笑顔は本物だね、ありゃあ、惚れたね、おれに。いやいや、ホントだって。講座の休憩時間に二人っきりでしゃべったんだって。おれ、目立つからね、毎回違うウエア着て、一番前の、先生の目の前で体操やってるからさあ。そうだ!今度飲みに誘っちゃおうかなあ、そしたらさ・・・」ウーはおしゃべりが大好きなのです。でも相手の豚の話なんてトンと聞いていません。とにかく喋りたいこと、頭に浮かんだことを口にせずにはいられないのです。ウーは長いこと大工の棟梁をやっていたので、今でも現場に行けば粗末には扱われません。健康体操が終わったら、ウーは今日も現場をぐるぐると巡ることでしょう。そうして喋りたいことを喋り散らして、今日一日を健やかに終えることでしょう。
ブーやフーに比べて、ウーは日に焼けて血色もよく、足腰もシャンとしています。なんせ前の棟梁ですから、現場に行けばウーのことを誰も粗末に扱いません。話に付き合ってくれる相手には事欠かないわけです。傍からみれば3匹の中では最も幸せな老後を送っているように見えます。ウー自身も、自分は結構イケてるジジイなんじゃなのかと自惚れています。
でも、長年連れ添ったウーの奥さんは気づいていました。跡を継いだウーの息子も気づいていました。実は、ウーはしばらく前から、他の豚とまったく話が嚙み合わなくなっているのでした。最初に気づいたのは息子豚でした。ある日のこと、「明日の現場の段取り、打ち合わせしようよ」息子はいつものようにウーに話しかけました。すると「トマトジュースがなんでいいか、おまえ知ってるか」とウーが答えたのでした。「いや、だからあの現場のさ・・・」「リコピンっておまえ、知ってるだろ?え、知らないの?こんなの一般常識だぞ、いいかリコピンってのはなあ・・・」「・・・」初めはウーがふざけていると思っていた息子も、こんなことが度重なって、これはどうしたことかと思うようになりました。他の職豚からもポツポツと苦情が出はじめました。息子豚は勇気を振り絞って決断しました。ウーは優秀な大工の棟梁でしたから、それはそれは苦渋の決断でした。息子豚は、何とか言いくるめて、ウーに現場から引退してもらったのでした。もう、かれこれ3年前のことです。仕事をリタイアして以来、ウーのアタマの具合はなお一層おかしくなりました。もう今となっては、家族の中でも会話が成り立たないのでした。でも、誰もウーにそのことを言えません。だって、ウーは一代で財を成した立派な棟梁でしたから。そしてリタイアしたあとも、健康で、大変ご機嫌で、日を過ごしているのですから。車の免許だけは、奥さん豚が、これもうまいこと言いくるめて、ようやっと先日返納させました。
夜もとっぷり暮れた頃、今日も息子豚と母豚は、ちゃぶ台でひそひそ話をしています。「ボケかな」息子豚が母豚に意を決して訊きました。言葉にすると、それが本当になってしまいそうで、なかなか言い出せなかった言葉でした。「たぶんね」母豚は湯呑に目を落としながらポツリと答えました。「車、やめさせたからさ、しばらくはこのまま様子みようか」そう言って息子豚も湯呑に目を落としました。「あ、茶柱立ってる」そう言うと息子豚は薄く笑いました。
襖一枚向こうのウーの部屋からは、健やかな鼾が聞こえてきました。