オレのリベラルアーツ(続き)

突然だが身内の話をする。

オレの母親は体育の教員だった。長年、身体を酷使して働いたせいか、まず膝を痛めた。膝をかばって動いているうちに次は腰を痛めた。仕事を退いて70過ぎたあたりで股関節を骨折してからは、よちよち歩きしかできなくなった。痛い箇所を庇いながら動いていると他の箇所にひずみが出るんだ。長年痛い箇所を庇っていたせいで、母の足の形は無残に変形し、常に痛みを伴うようになっていたようだ。

母は見栄っ張りでカッコつけだった。変形した足を人に見られるのを嫌がって、靴下と靴を決して脱がなかった。眠るときも履いたまま布団に入った。80すぎて転んだのをキッカケに母は寝たきりになった。寝たきりになった母親に、オレが一番初めにしたことは、靴下と靴を脱がすことだった。もうずっとベッドに寝てるんだから靴も靴下も必要ない。ところがだ、いざ脱がすという段になって、オレは驚愕の事実に直面した。靴を、靴下を脱がせられないのだ。ずっとずーっと身につけていると、簡単には脱がせられなくなるのだ。そう。靴・靴下と母の足は、〝癒着〟していたのだ。

それは脱がすというより、引き剥がすと言った方がしっくりくる感じだった。靴を剥がす。靴下を剥がす。脱がすのではなく剥がす。ベリべりっと音が聞こえる感じで引き剥がす。靴、靴下、足、それぞれがそれぞれに喰い込んでしまっていて、見てるオレが辛くなるくらい、母親は痛そうだった。お湯につけてふやかしながらやるのだが、尋常でない痛みだったらしく、母親は声を上げて泣いた。「もう死にたい」と泣きながら何度も叫んだ。

靴下を脱いだ母の素足は、子豚の蹄のような形に変形していた。これが人間の足か、とオレは目を瞠った。靴下を脱がすときにいっしょに皮膚がはがれたらしく、ところどころ赤剥けになってジュクジュクと膿んでいた。

前回、刈谷東の生徒は、身を固くして殻を被っている感じだとオレは書いた。シンドい現実から身を守るために彼らは殻を被った。それは生きのびるための防御だった。しかしずっと被っているとどうなるか。母の例を当てはめてみればすぐにわかる。まずは脱げなくなる。次第に癒着がはじまり、被った殻とからだが一体化する。癒着してしまったら、壊したり剥がそうとすれば、ひどい痛みを伴うし、剥がし終えた時には、元のからだは一部は膿んでいるかもしれない、腐っているかもしれない。生きのびるために被った殻が、時間を経て、自身を傷つけてしまうのだ。

一旦被った殻を壊すのは、からだから引き剥がすのは容易ではない。しかし、やらないと。それを敢えてやろうっていうのが、授業「リベラルアーツ国語」なのだ。

余談だが、自慢話をひとつ。刈谷東高校では、リベラルアーツ国語を3年生の生徒全員が受ける。たくさんの生徒が「体育の次に楽しい授業だ」って言ってくれてるよ。すごくないか?殻を破ったり、剥がしたりする授業なんだよ。それが「楽しい」なんて!最初は抵抗があるみたい。でも、何回か授業やっていくうちにそう言ってくれるようになるんだ。

前回から書いている文章の狙いは、オレにとってのリベラルアーツの定義をはっきりさせることだった。

オレにとってのリベラルアーツとは、まずもって「被っている殻を破る/剥がす営みである」と言えるだろう。

なら・・・

殻はどうやったら破れる/剥がせるんだろう?(具体的な手段、方法)

殻を破る/剥がすとどんないいことがあるんだろう?(目指す地点)

次回は、この2点について言及する。それでようやく、オレのリベラルアーツの定義が完成するはずだ。

このテーマは、あと1回続く。