たのしいだけじゃだめですか?

学ぶことは変わること
オレ、このセンだけは譲れないんだ。
単なる娯楽や、時間つぶしや、些細な知識の詰め込みばかりの授業が跋扈してるから、授業という営み自体が、ひいては学校という制度そのものが、世間からこんなにもコケにされてるんじゃないのか?

リベ国はコケにされる授業じゃあない。断じて、ない。
リベ国は、変わることを要求する授業だ
人間、そうそう変われるわけがない。人が変わるなんて、ホントは奇蹟みたいなことなんだ。でも、奇蹟みたいなことを実現するから、本当の授業ってのはすごいんだ。
リベ国はそんな奇蹟みたいな授業だ。すくなくとも奇蹟みたいな授業であろうと努める授業だ。

この土日、大阪の某高校と、大阪某地区演劇部員の講習会で、リベ国の授業をやってきた。

生徒の感想を引く。大阪の某高校の生徒が書いた感想だ。

「すごく楽しかったです。途中からだったけど、いろんなことができて楽しかったです。またやりたいです。グループでしりとりをやったけど、案外むずかしかったけど、がんばってできてよかったです」
「めっちゃ楽しかった。いつもみんな仲良しで誰とでも話すけど、今日もっとはなしやすくなった気がする。あいてに会わせたり逆に合わせてもらったり、ふんいきをよみとったり、サポートしあったり、自分からいくっていうことを勉強できた」
「いつもあんまり話さなかった子ともしっかり目を見てコミュニケーションをとってみて、人との「間」をつくることへのイメージが大きく変わって苦手意識が少なくなりました」
「最初は普段話している子と一緒だったけど、やっていくうちに楽しくなって他の人とでも楽しめるようになれたので、良かった。これからも、他の人と交流していきたいなと思った」
「はじめてクラスの子たちとこんなになかを深めたのははじめてだったと思います。あまりはなさない子とでもふつうにつづけることができたのでとてもよかったです。今日やったことをおもいだしながら、これからもいろんな人たちと仲を深めていきたいと思いました」

3年間同じクラスで持ち上がった高校3年生のクラスで、みんな仲の良い、とてもいいクラスです、というのが前情報だった。
会ってみると、前情報通りのクラス集団に思えた、少なくとも1時間目の終わりまでは。

「休憩ほしい?」1時間目の授業が終わってオレは生徒に訊いた。
「ほしいです」クラス委員の子が答えた。
「何分?」
「10分お願いします」

立ち位置は人間関係を表す。そんなの、演劇やってる人間なら誰でも知っている大原則だ。
オレは、演劇の大原則通り、生徒たちの立ち位置を観察した。いや、悪意じゃないよ。単なる習性で、つい見ちゃうんだ。
つい見てしまって、オレは・・・慄然とした。
みんな仲良しの、3年間いっしょのクラスは、いくつかのグループにぱっくりと分かれいた。そして、グループとグループの座る位置はとても離れていた。教室の壁際には、どのグループにも属さない生徒たちが、これも一人一人、距離をうんと取って、体操座りで座っていた。
これが3年間いっしょの仲良しクラスの、放課の光景なのか?
一つ一つのグループの内は、たしかに仲がよさそうだった。一番大人数のグループに至っては、教室の真ん中に陣取ってハンカチ落としをやっていた。ムチャクチャ楽しそうに。担任も、なぜかそのグループに入って、いっしょになって走りまわっている。××ょ。すまんがオレは思ってしまった。
それはあまりにも孤独な光景だった。漆黒の宇宙空間に点在する星々を見るような気分になった。

10分放課の終わったのち、オレは明らかな狙いを持って、授業をやりはじめた。残り2時間でオレが設定した狙いは、「他のグループの子ともきちんと関わる経験を積ませること」だった。

3時間の授業が終わった後に、生徒全員に授業の感想を書いてもらった。先に載せたのは、その一部だ。


学ぶことは変わること。リベ国の価値を下げずに、自分の理想を裏切らずに、今日も授業をなんとかやりおおせることができたのかもしれん。感想を読んでオレは思った。

楽しいだけじゃ、だめなのだ。リベ国の授業が楽しいのは、最早当たり前で、それだけでは全然だめなのだ。授業の成否は、〝変容〟をもたらすことができたか、この一点にかかっている。変容をもたらせなければ、「ああ、楽しかった」だけの、単なるレクリエーションに堕してしまう。
リベ国はレクリエーションではない。断じて、ない。

そうじゃなきゃ、オレがこんなに体重かけて取り組むわけがない。そいつの一生をゆがめるのを承知で、この授業いっしょにやろうぜって、才能も前途もある若い人を誘えるわけがない。