「先生」

竹内敏晴と出会ったことは決定的だった。

リベ国の本を出す。リベ国という授業がこの世に出来するまでの略年譜を作る必要があり、振り返る作業をしている。

竹内さんと出会ったのは2008年、竹内さんの亡くなる1年前だった。オレは43歳。竹内さんは年譜(『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想』4巻所収)によれば、83歳。40歳、オレよりも年上だった。

オレはその年スーパーハイスクール事業の指定を受け、「演劇表現」の教科書を作る事業を進めることとなった。研究指定の期間は3年間。貧乏ったらしくなってしまった今の教育界からは想像もできないほどの予算がつけられた。オレは視察と称して、日本中の演劇の授業を見て回った。あらゆるジャンルの舞台を観に行った。週に1回のペースで愛知県内全域で一般市民対象に「演劇表現」のワークショップをやってまわった。オレもまだ40ちょい過ぎで元気だった。今思い返すと夢のような3年間だった。

スーパーハイスクール事業の基調講演を大々的にやろうとオレは思いついた。誰に話してもらうか?芝居作りをゴールとしない演劇の授業、プロの演劇関係者ではなく、教員が自分の目の前にいる生徒のために実施できる演劇の授業、そんな授業をオレは作りたかった。その方向性にふさわしい先人は誰か?オレの中では竹内敏晴以外、思いつかなかった。

オレは1人で竹内さんに会いに行った。忘れもしない、千種駅前にあった喫茶店が待ち合わせ場所で、オレは思いの丈を語り、それまでオレがやってきた「演劇表現」の授業内容を洗いざらい竹内さんに見せ、深々と頭をさげた。オレに力を貸してくれ、と。竹内さんは随分と長い時間をかけて、オレの「演劇表現」の授業内容が書いてある紙を読んでくれた。読み終わるのを待つ時間。あの時間ほど緊張したことは、それまでもそれ以降も一度もない。オレがスゲエと認めた人に、オレのやってきたことがジャッジされているわけだから、そりゃあ緊張するさ。

読み始めてから随分長い時間が経った後、竹内さんが顔を上げた。そうして口を開いた。

オレはその時、竹内さんに言われた言葉に力づけられ、今日までの20年近くを演劇に、演劇を使った授業のために費やしてきたといってもいい。

「あなたのやってきたこと、やろうとしていることは痛いほどわかる」

「私は、あなたの応援団長になります」

竹内さんはオレに、40歳も年の離れた若造のオレに、言ってくれたのだ。

そして、こうも言った。

「私のレッスンの猿まねをしてはいけない。あなたは、あなたの根拠のあるレッスンをやりなさい」と。

その言葉通り、竹内さんは何でも相談に乗ってくれた。いつ電話してもちゃんと応対してくれた。会うと必ずおごってくれた。「ここは私のシマだから」と言って。その言い方がものすごくカッコよかった。

先生と呼びたい人は、オレにはほとんどいない。オレは傲慢な人間だからね。でも、竹内さんは別だ。もし許してもらえるならば、オレは竹内さんを、先生と呼ばしてもらいたい。そういやあ、会っていた頃、オレはずっと「竹内さん」って呼んでたな。なんちゅう傲慢な人間なのかね、オレは。今なら呼べるな。衒いもなく、「竹内先生」ってさ。

オレ、竹内さんから自筆の手紙もらったんだ。刈谷東の「演劇表現」に、授業をやりにいきたいって手紙。オレね、シカトしたんだ。怖かったんだよ。いっしょに授業やったら、なんだかオレが竹内さんに呑み込まれてしまいそうな気がして・・・。これだけはすごく後悔してるんだ。やってもらっとけばよかったなって。あんなすごい人が自分から「やりたい」って手紙くれたんだよ。それなのに・・・。43歳のオレはなんて自己中の、弱虫だったんだって思うね。今なら、喜んでやってもらうのになって思う。オレの生涯の悔いのひとつだ。

竹内さんの主著「ことばがひらかれるとき」(ひらくは難しい漢字、原題は)が書かれてから今年で50年になる。その年にオレは本を出せそうで嬉しく思う。

この本は、竹内さんがオレに出した宿題に対する、オレのファイナルアンサーのつもりで書いた。

この人の言うことなら、騙されたってしゃあないわ。そう思える人が、あなたにとっての「先生」なんだろう。

親鸞は、法然に騙されて地獄に落ちても悔いはないと言っている。そういう関係が切り結べるのが、あなたのとっての「先生」なのだろう。

「先生」に、生きているうちに必ず出会えるとは限らない。

「先生」に出会えること。それは偶然を超えた出来事なのかもしれない。

オレは学校の教員やってる。「先生、先生」って普段呼ばれてる。あのね、ここまで書いてきた意味での「先生」と、職業としての、学校の「先生」はまったく別モンだからね、念の為。