モノには記憶が宿るのかも。

今、オレは母親の遺産の別荘を売ろうとしている。場所は豊田の下山村だ。なかなか買い手がつかない。地下1階、地上2階の、パッと見は、たいへん見栄えの良い別荘だ。

売るにあたっては掃除をしなきゃならない。今は何もない状態(売れる状態)になった。初めて見た時には、母親たちの使っていたモノたちが溢れ返っていた。

母親が死んで3年経つ。携帯の中に1枚だけ残してある写真を、オレはたまに眺める。なんの加減か明け方の夢に母親が出てくることもある。決まってオレは叱られる。『友くん、あかんだら!なにやっとるだん!』あの言い方、あの声で母親はオレを叱る。叱られたって、たとえ夢だとわかっていたって、会えたことが嬉しい。涙を流して目が覚める。

ひっくり返って泣きわめき、だだをこねたくなる。『もう怒ったりしません。悪いこともしません。わがままもいいません、いっぺんだけ生きたお母さんに会わせてください』と。

オレも大人だ。理性もある。そんなことしたって、母親の実物はオレの目の前に現れないのは百も承知だ。だからやらない。写真見て、たまに夢を見て泣いて、それで堪える。なのに、母親の使っていたモノたちは、ゆっくりと朽ちながらも、依然として、あの別荘に存在していた。持ち主が死んでも、モノは残り続けていた。別荘に行くたびに、やるせない気分になった。

モノには記憶が宿っている。オレは実感するようになった。実家、別荘等々・・・。人間がいなくなって、モノだけが残っている場所を、この頃たくさん見たせいかもしれん。

で、ここからが本題。オレね、今、便所くんの存在が頭から離れないんだよ。便所くんは、かつてオレが芝居のためにこの世に生み出した、3メートルの巨大男性便器だ。いっしょに大須で公演をした。商店街をパレードもした。高校演劇の大会では、真冬の富山までいっしょに行った。富山公演が終わったあと、便所くんは、刈谷東高校の片隅で、誰にも顧みられず、四方をスチールの掃除道具入れに囲まれたまま(まるで封印されているようだ)横たわっている。何年もの間、ずっとずっと。

モノに記憶が宿るとしたら・・・便所くんにはどんな記憶が宿っているのだろうか。陽も決して差さない、薄暗いあの場所で、彼は何を考えているのだろうか。オレは近頃、ずっと考えている。

オレは便所くんに会いに行こうと思う。『久しぶり。ごめんな、長い間放っておいて』って。